1913年生まれの申請者に大使館もびっくり 2011年10月20日


K.Kさんは2004年、私がPRAにいたころに退職ビザをとった。その方が、ご両親を連れて、奥さんの故郷、フィリピンに永住するためにやってきた。当時は、両親の介護があるので、フィリピン移住は当面先のこととおっしゃっていた。しかし、今回の大震災で両親の介護を日本でやることに不安を抱き、一家でフィリピンに移住することを決意したのだ。当時、両親の介護が必要だったら、ますますフィリピンに来るべきだと、私が主張したのを覚えている。ちなみに K.Kさんは東北、山形県在住だ。

 ビザ申請の準備として、事前に日本大使館で婚姻証明を取得した。その時、窓口係りのMさんが、申請本人が1913年生まれと知って驚嘆の声を上げていた。数えで99歳、もうすぐ1世紀となるのがお父さんのS.Kさん、そしてお母さんのC.Kさんは89歳だが認知症を患っている。ともに大正生まれだ。

(下の写真はNBIで指紋をとっているところ。)

初日は、NBI、クリニック、銀行、PRAそして大使館を回ったが、車の乗り降りに20~30分かかるのと相変わらずの渋滞で、やっとのことで回りきった。さらに、ビザ申請と同時に、無税輸入、お母さんの口座開設、ビザ取消の委任状と口座の共同名義への変更、K.Kさんの免許証の書き換えなどを翌日の午後までに終えるために、おおわらわの二日間だった。たったの2日でこの有様だから、高齢のご両親を伴って一家で日本から移動してきたK.Kさんのご苦労は言葉に尽くせないものがあったと思う。

 ビザの受け取りは私が代行する予定だが、そのため、事前にPRAを訪問して、ビザの受け取りの手続きをするようにとPRAにリクエストされた(まだ申請もしていないのだが)。窓口のミッシェルは営業部長のノエルに連絡し、さらにノエルがGMに報告して、PRA一同がK.Kさん一家を迎えた。恒例の記念写真をとってもらったが、多分、PRAの高齢者ビザ取得のレコードだと思う。帰り際、フレンドシップ・ツアーの岩崎さんに遭遇したが、高齢の退職者のビザ申請に「すばらしいことですね」とうれしそうに励ましてくれた。

Dusit HotelK.Kさん夫妻と、ヤヤに抱かれてなぜか泣き叫ぶKIAN

2日目の午前中に免許証の書き換えを終わり、午後は、お母さんのレントゲンの取り直しと銀行で通帳の受け取りだけを残すところととなった。少々リラックスできたので、宿泊先のDusit Thani Hotelで食事をとることになった。当方もKIANを含む全員で参加したが、どうも奥さんの機嫌がよくない。

 実は、当初私が、K.K さんのためにNTTホテルを予約したのだが、駐車場がないので、急遽ホテルを変えてしまった。ところがK.Kさんは、かつて日航が運営していたHotel Nikko Manila Garden(今のDusit Thani)しか知らないので、そこに宿を取った。しかし、宿泊料がNTTホテルの5倍位するので、しっかり者の奥さんが腹を立ててしまったのだ。レストランのメニューを見てまたびっくりして、自分達の分は注文はしないという徹底振りだ。奥さんにとっては、これから退職金などの預金だけで生活していかなければならないので、倹約ということがなによりも大事なことなのだろう。

 また、奥さんは、いつもお義母さんに付き添ってかいがいしく面倒を見ていた。昨今の日本ではちょっと見られない光景だ。しかし、フィリピンではお年寄りの面倒を子供が見るのは当たり前なので、ご両親は、フィリピンできっと幸せな時を過ごすことができると思う。K.Kさんも良い奥さんをもったものだと、つくづく思ったが、若いジャパユキさんでは、こうは行かないだろう。ちなみに奥さんは元レントゲン技師だそうだ。

(カメラを向けるとお母さんは恥ずかしがって帽子で顔を隠してしまった。)

奥さんの実家はマニラの北120kmくらいのNueva Ecijaにあり、1.5ヘクタールのマンゴ農園と3ヘクタールの水田を持っているそうだ。K.Kさんはこれからそこでご両親の面倒を見ながら百姓をして暮らすという。まだ年金をもらうまでには数年あるから当面預貯金を食いつぶしていくことになるが、食べるものは豊富にあるから、さほどの金も必要ないだろう。

 奥さんがフィリピンで農園を所有しているという好条件は、誰にでもというわけには行かないが、昨今そして今後の日本の状況を考えたとき、 K.Kさんは思い切った抜本策をとったと思う。日本の家は売り払い、もはや日本に帰ることはないと言い切り、不退転の覚悟ですと、唇を引き締めて語っていた。

 

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