フレンドシップツアー、岩崎さんの「岩ちゃん日記」のメール・マガジンの呼びかけで、格安コレヒドールツアーに参加した。通常、昼食込みで2000ペソ程度かかるのが、たったの1000ペソで観光することができた。マニラ湾に浮かぶおたまじゃくしの形をしたコレヒドール島はマニラの重要な戦略上の拠点で、スペイン時代からマニラを守ってきた。また、太平洋戦争の激戦地としても有名なところで、現在も人は住まず、史跡として当時の様相を残している。
コレヒドール行きのフェリーはマニラ湾の埋立地、Cultural Center of the Philippines(フィリピン文化センター)のそば、マニラヨットクラブの港内、香港から運んできたという海に浮かぶ中華レストラン「ジャンボ・キングダム」(右下写真)の隣から出港する。
この付近はあちらこちらに大きな広場があり、早朝には多くの人がインストラクターに従って、集団でエアロビクスをやっている。どういうわけかそこにはセクシーな若い女性はおらず、太目のおば様やおじ様ばかりだ。若い人はもっぱら夜のエクササイズに忙しいのだろうか。また、岸壁に沿って釣り人も多く目にするが、こんな汚い海の魚を釣って食用にするつもりなのだろうかと、気にかかる。
コレヒドール行きのボートは120人乗りが2艘、日本製で時速40kmくらいは出るだろうか、なかなか快適な1時間程度の船旅だ。2名の女性乗り組み員が軽食や飲み物を提供しているが、ちょっと高めだ。
島に着くと、昔、実際の走っていたという軌道列車を模したバスで案内してくれる。日本人は1号車、その他は5号車というので、てっきり日本語を喋るガイドがいるのかと思ったら、今日は休みで、かなりブロークンな英語を喋るガイドが付き添った。一緒に参加した日本の某女学院の中高の生徒さんに同行した日本語を喋るガイドさんが通訳していたが、途中で面倒になったのか止めてしまった。
コレヒドール島は観光史跡ということで人は住んでいない。だから、とてもきれいに整備されている。ホテルやビーチコッテージもあるので家族連れでしばらくのんびりするのもいいかもしれない。
はじめにお目にかかる史跡がバラックと呼ばれる兵舎跡だ。鉄筋コンクリート製だが爆撃や樹木が絡み付いて、建設から100年くらいたった今では柱と梁くらいしか残っていない。それもここかしこで崩れ落ちている。バラックといえば日本ではにわか作りのぼろ家をさすが本来の意味は兵舎という意味らしい。
コレヒドール観光の目玉は島中に配置された大砲だ。1900年代初頭、すなわち明治から大正にかけて、作られたそうだが、衝撃を吸収する装置(ショックアブソーバー)など、なかなかモダンな感じがする。ガイドはこれらの大砲のことをガンと呼んでいたが、本来はカノン(Cannon)が正しいのではないかと思ったが、あとで辞書を調べたら、現在ではガンというのが普通らしい。
さらにこの場所をバッテリー(Battery)と呼んでいた。電池じゃあるまいし、と思ってやはり辞書を調べたら、砲台という意味だった。電池との関連から電気(エネルギーないし火薬)をためる場所、すなわち弾薬庫と類推したのだがそうではなかった。これら砲台は島の中に20箇所程度あるようだが、それぞれの砲台には弾薬庫が隣接しており、厚い土で覆われて、空から爆撃されても被害を受けないようになっている。
30cm長距離砲の迫力はなかなかのものだ。大砲にはあちらこちらに銃撃の跡があり、襲撃の激しさを物語っている。ちなみにこの大砲は350発が限界で、その度に砲身を交換しなければならないそうだ。砲身は工場に運ばれ中のらせん状の溝を掘りなおして再び使われるそうだ。
マイル・ロング・バラックと名づけられた兵舎。実際、1マイル(1.6km)はないものの500m位の長さの建物だ。ここには数千人の兵士が暮らしていたのだろう。
博物館には直径45cmほどの砲弾が置かれていた。ここにある大砲は30cm砲だから、ガイドに聞いてみたら戦艦大和のものだという。大和は日本近海で沈んだはずだから、ありえない。もしかしたら、戦艦武蔵のものかもしれない。
前回の訪問(15年以上前)では見かけなかった戦争記念碑が建設されていた。中央のモニュメントはヘルメットを形どったものだそうだ。今頃何のためにこんなものを作ったのかわからないが、コレヒドール島をそれらしく見せる小道具としては役に立ちそうだ。
スペイン時代に立てられた灯台。少々疲れ気味でパスしたが、上に上ると360度のマニラ湾の眺望を楽しめるそうだ。
さらに大きなクロケット砲台(バッテリー)は1908年に20万ドルの巨費を投じて建設されてものだそうだが、当時の米国の技術の粋を集めて建設されたのだろう。
「I shall return」の有名な言葉を残したマッカーサー元帥の像。ガイドはMc Arthor(英語ではマック・アルトーと発音する)のこの言葉を、客が日本人だということで繰り返し説明していたが、当の女学生達は知らぬが仏。通訳も面倒くさいのか、黙ったままだ。無理もない10代半ばの女の子にとってマッカーサーがどうのこうのと言っても、まるで江戸時代の歴史物語のようなものだろう。
話はそれるが、先日、若い30代の日本人をアラバンに案内した。アラバンはメトロ・マニラの南のはずれのモンテンルパ市にある高級住宅街だ。モンテンルパといえば我々の年代のものには「モンテンルパの夜は更けて」の歌を思い出し、故郷の思いをこめてこの歌を歌っていた戦犯の胸のうちに思いがはせる。彼らに「モンテンルパの刑務所には数千人の死刑囚などが収容され、近くには日本人墓地があり、戦後...」と話をしても、「一体何の話をしているのか」という顔をされて、話すのを止めってしまった。彼らにとっては、マッカーサーも太平洋戦争も遠い昔の、歴史の本にしか載っていないことなのだ。
コレヒドールの目玉はマリンタ・トンネルといわれる、1922~1932年に建設された貯蔵庫で、後に事務所や病院になったトンネルだ。太平洋戦争では日本軍の司令室ともなり、この中で多くの日本兵が戦死したそうだ。
10年ほど前に私の会社の同僚がインドネシア人とのハーフの子供を連れて、このトンネルを訪れた。その子供はまだ5~6歳で、ここが何であるか全く知らなかった。しかし、子供は父親に「兵隊さんがたくさんいる」と語り、同僚は思わず背筋が凍ったそうだ。その子供は心霊能力があるそうで、子供にはそこで命を落とした多くの日本兵の魂が見えたのだろう。
このトンネルには多くの枝があり、大型の事務所ビル程度の面積を有し、しかも耐空爆の要塞だ。どれだけのコストがかかったか知らないが、戦争とは実にとんでもないものを作りあげるものだ。