エドサ革命とマルコスの復権 2016年2月28日


2月25日(木)はエドサ革命記念日で祝日だ。エドサ革命とは30年前(1986年)、1965年以来21年間続いたマルコス大統領の独裁政権を打倒した、ピープルズ・パワー革命とも呼ばれる政変の記念日だ。この政変は、上院議員だったベニグノ・アキノ(通称ニノイ・アキノ、マニラ国際空港は彼の名をとってNinoy Akino International Airport(NAIA)と呼ばれる)が1983年、死を覚悟して帰国し、飛行機からおりるタラップで射殺されるという事件に端を発している。そして夫の遺志をついで大統領選に立候補したコーリー・アキノに対しマルコスが当選とされた選挙を不正として、ラモス(コーリー・アキノの次の大統領)などの将校がキャンプ・アギナルドに立てこもり、それを民衆が取り囲んで守り、マルコスを国外においやった無血革命だった。CIMG0300

首都圏、マカティのアヤラとパセオデロハ大通りの交差点にあるニノイ・アキノの像CIMG0314

首都圏のバイパス、エドサ通りのキャンプ・アギナルドに隣接した広場に置かれたピープルズ・パワー・モニュメント、左端の像が英雄ニノイ・アキノだ

この記念日に現大統領のノイノイ・アキノ(コーリー・アキノ元大統領の息子)が演説で強調したのが、マルコス独裁政権の批判だ。 コーリー・アキノのあと、ラモス元大統領は名宰相と呼ばれたが、その後の大統領、エストラーダ(現マニラ市長)、そしてアロヨ(服役中)は汚職にまみれ腐敗した政権だった。それを嘆き悲しんだコーリー・アキノが亡くなったのが2009年で、その葬式は国葬を上回る国民葬で、全国民がフィリピン最後の英雄との別れを惜しんだ。そのブームにあやかって、翌年の2010年の大統領選挙では息子のノイノイ・アキノが圧勝した。そして6年がたった今、マルコスの実の息子、ボンボン・マルコスが副大統領に立候補して、しかも現在支持率一位で、アキノ現大統領が危機感を募らせているのだ。

CIMG0335

マニラ大聖堂からマニラ・メモリアル・パークまでの21km、8時間の行進に、沿道は20~30万の人々で埋めつくされた。

CIMG0121

コーリーアキノの娘、人気女優のクリス・アキノが母を語る姿はテレビを独占した

エドサ革命から30年、国民の半分以上は、この政変後に生まれた。また、選挙権を持っている18歳以上の国民の半数近くがこの事件の記憶はないだろう。一方、マルコス時代は、古き良き時代、フィリピンの黄金期という認識も出てきている。これは、エストラーダ、アロヨと続いた腐敗政治、そして現アキノ大統領になっても、これといった変化はないという、国民の率直な感想だろう。マルコスのような力強い指導者を期待している面があり、その証拠に、ダーティハリーの名をほしいままにしているダバオ市長のドテルテ大統領候補も人気が高い。アメリカ大統領の共和党候補のトランプ人気に通じるものある。

CIMG0309

ルソン島北部、北イロコス地方のラワグ(Laoag)はマルコスの出身地、そこにはマルコスの像が高々とたっている

CIMG0327a

マルコスの廟には、今でもマルコスの遺体が安置され、参拝することができる

マルコス一家の故郷、北イロコス地方およびラワグ市は、今でもマルコス一家の人気は高い。2010年の選挙では、マルコスの妻、イメルダが下院議員、息子のボンボン・マルコスが上院議員、そして娘のアイミーが知事に当選して、まさにこの地方の支配者として君臨した。1990年代、イメルダが亡命先のハワイからフィリピンに戻ってきたとき、人々(特に貧困層)は「Well Come Ma’am」と唱えて彼女を歓迎した(当時、私の運転手が、このスティッカーを車に張ってよいかと聞かれたことがあった)。ベニグノ・アキノが暗殺されて以来、アキノ家とマルコス家は因縁の確執が続いている。2010年の選挙では大統領と上院議員と棲み分けの形になったが、今回はアキノ家は候補者がいないので、事前にマルコス家の息の根を止めようとアキノ大統領は躍起だ。今回、ボンボン・マルコスが副大統領に当選したとしたら、次期大統領への足がかりを作ることは必須で、その次の選挙では大統領の座を狙うのは目に見えている。そうなれば、まさに、マルコス一家は宿敵アキノ一家を巻き返し復活することになって、戦国の世を思わせる。

CIMG0311

2010年の統一選挙戦のポスター。ここ、ラワグではマルコス一家が健在だ。中央上がボンボンマルコス、その下がイメルダマルコス。CIMG0328

故マルコスとイメルダをいまだにバレンタインディのモデルにして、人々の心の支えとなっている

フィリピーノには人を許すという文化がある。戦後、モンテンルパに収容されていた100人を越える戦犯者がキリノ大統領の恩赦により釈放され、生きて日本の地を踏むことができた。この話は、渡辺はま子の「あぁモンテンルパの夜は更けて」という歌とともに有名だ(もっとも最近の若い人に聞いても、はぁ?という反応がほとんどだが)。キリノ大統領は日本兵に妻と子供を殺されたが、許すことを美徳とするフィリピン人ならではの決断だった。フィリピンは、日本に対して戦争の恨みというものはなくて、東南アジア随一の友好国、どこかの国が日本を侵略者と位置づけ、いまだに学校教育にも取り入れているのとはずいぶん違う。そんな許すという国民性がマルコス独裁政権をかえって懐かしみ、その息子が副大統領として支持率を集めるという結果になっているのではないだろうか。

Leave a comment

Your email address will not be published.