「他人(ヒト)に迷惑をかけない」のは果たして美徳なのか 2012年11月5日


   先日、「日本を捨てた男たち」の著者でマニラ新聞の記者の水谷さんが取材協力を求めて事務所を訪問された。私がお世話した退職者でいろいろユニークな方々を紹介してほしい、というのだ。私の周りには水谷さんの著書に出てくるような困窮日本人はいないということを前置きして、最近の退職ビザを申請する方々の特徴を話した。

    申請者の半数近くは50歳未満の比較的若い方である。もちろん現役組だ

    私とコンタクトをとり主体的に動いているのは奥さん(ご夫婦で申請の場合)あるいは独身ないし単身の女性。すなわち女性が半数に近く、しかも子育て真最中の方も多い

    申請者の半数近くは、大学教授、医者、先生、大手上場会社勤務など社会的にステータスのある、あるいはあった人である

    申請者の半数近くは退職ビザ取得のために初めてフィリピンを訪れた方々である。ビザの取得手続きをするために初めてフィリピンを訪問する方も多い

 フィリピンで永住ビザを取る人は、「日本を捨てた男たち」に登場するようなジャパ行きさんの尻を追いかけてやってきた中年ないし熟年男性、あるいは老後を物価の安いフィリピンでゆったりと過ごすご夫婦、と大方の人は思っているに違いないが、少なくとも2万ドルの預託金を積んで退職ビザを取得する方々においては、これら中・熟年男性あるいはご夫婦は少数派になってしまった。

この話に水谷さんは大いに興味を持ち、是非これらの方々を紹介してほしいということになった。記事にするかどうかは別として話を聞いてみたいというのだ。さっそく、インタビューに応じてくれそうな方々にコンタクトをとってみたが、ほとんどの方が快く依頼に応じてくれた。

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何か悩みでもあるのだろうか。オー・マイ・ゴッドのポーズをとるKIAN

水谷さんとは困窮日本人の話が続いたが、日本大使館は、これらの日本人が困窮に陥ったのは、自己責任を原則とし、必要以上の手を差し伸べない、せいぜい、日本にいる家族にコンタクトを取って、帰国費用の支援を求めるだけだ。しかし、あんな息子、あんな親、あるいは、あんな兄弟には、愛想をつかしているから、勝手にしてほしい、というのがほとんどの家族の回答だそうだ。また、彼らは、例え日本に帰ったとしても生活の目処は立たず、このまま、フィリピン人の世話になるしか手は無いという。

そして、大使館の邦人保護の担当官は、女の尻を追いかけてフィリピンにやってきて、持ち金を使い果たして困窮に陥るのは、自己責任の世界で、何のゆかりもないフィリピンの人々に迷惑をかけて申し訳ないとコメントする。この「迷惑をかける」という言葉に、私は、「かちっと」来た。困り果てている人に対して、支援することが、「迷惑をかける」という感覚だ。一方、日本の家族は、例え家族だとしても、この迷惑な依頼に拒否反応を示す。そして縁もゆかりもない人々に迷惑をかけていることを意に介しない。

我々日本人は子供のころから「人に迷惑をかけてはいけない」、「他人様、世間様に迷惑をかけないで生きていくことが美徳なのだ」と教えられてきた。だから、自殺する人の遺書には「迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」とつづるのが定石だ。世間や家族への恨みやつらみよりも、世間にかける迷惑を詫びるのが先決なのだ。E-メールでも英語では「JUNK MAIL、ごみメール」が日本語では「迷惑メール」となってしまう。

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お気に入りのトラックの写真を撮るKIAN。最近はカメラを構えるとすぐに自分で写真を撮ろうとする。

しかし、フィリピンの人は困った人を助けるのは決して迷惑とは思っていない。困った人を助けるのは、人間としての義務であり喜びだと思っている。それが家族だとしたら、快く、自分の三度の食事も削って喜んで支援する。家族の範囲は親や子どもはもちろん、兄弟、兄弟の配偶者、配偶者の兄弟にまで及び、その数は数十人に達することもあった、としてもだ。 

日本ではせいぜい、配偶者と親と子供くらいまでが家族と認識されるが(要は戸籍に登録されている範囲だ)、フィリピンにおいて家族は兄弟の配偶者、そして配偶者の兄弟にまで及ぶ。これは逆に、自分が困難に境遇に陥ったら、親・兄弟ばかりか配偶者の兄弟までの支援を期待できるということなのだ。

フィリピン人の配偶者を持って、その兄弟までに頼りにされているのが、理解できないという方が多いが、その辺は家族というものの概念の相違だ。家族は多ければ多いほどその支援は大変だが、逆に頼りにもなる。だから、フィリピン人の多くの人は貧困にあえぎながらも生き抜いていくことができるのだ。

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先日(10月27日(土))のハロウィン・パーティでは並みいる強豪を抑えて、KIANは最優秀仮装賞を受賞した。この日は全国的に子供たちが仮装をして街に繰り出す

日本のように核家族化が進むと、面倒をみる範囲は少なくて済むが、自分が困難な状況の陥った時、年老いた親と幼い子供だけでは頼りにならない。自分だけが頼りでは何かあったら、自殺するしかほかにない、という状況に陥ってしまうこともあるだろう。

しかも、自分の子供に対してさえも「老いたら子供の世話にはなりたくない、迷惑をかけたくない」と、自慢げに言うのが子育てを終えた昨今の熟年夫婦の一般的風潮だ。さらに孫の面倒を見るなんでとんでもないと付け加える。そして息子は「嫁の手前、親の面倒は見られない」と、臆面もなく語る。このように親子が断絶したしまったおかげで、嫁・姑の確執の話題は絶えて久しいが、姑がいない分、子育てに苦労している、あるいは子育てを放棄しているのが今の嫁達だ。 

親子が面倒を見合うのが迷惑と認識されたら、人類はどうなってしまうのだろうか。赤ちゃんは面倒=迷惑の塊で、何から何まで世話をしないと生きて行くことができない。最近は虐待という子供の面倒をみることを放棄する親が社会問題となっている一方、親の面倒を見ることを放棄して施設に預けるのが常態化している。こんなことで日本人は世代を越えて生きながらえて行くことができるのだろうか。 

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好物のチキンの丸ごとバーベキューを買ってもらってご機嫌のKIAN、彼はこのチキンを決して誰とも分けようとしないで、独り占めする。私が「少し頂戴」と言うと、泣きわめいてチキンを守ろうとする

65歳以上の高齢者がすでに25%に達し、近い将来、30%そして40%に達する日本は、自分は自分で面倒見るようにと、定年が65歳まで延長された。元気な高齢者が働くのは大いに結構だが、これが逆に若い人の就業の機会を狭めようとしているという。高齢者は若者の職場を奪うのではなく、高齢者なりの役割あるいは働き場所があるのではないか。 

つて縄文時代の平均寿命は10代だったそうだ。江戸時代でも30代だ。そして戦後平均寿命は50代から80代にまでなってしまった。そうなると人間は本能的に子供を作らない、あるいは作れなくなってしまうのだろう。一方フィリピンでは巷に子供があふれている。住宅街あるいはスコーター(スラム)に足を踏み入れると、どこも子供、子供、子供だらけだ。子供こそが人類の原動力のはずが、子供のいない、あるいは子供を育てることができない社会=日本は、いずれは滅びゆく運命にあるのだろう。 

 話を元に戻そう。人は、子供時代、親の面倒だけに頼って生きてきた。そして老人になったら子供の面倒になり、そして生涯を終える、これが人生の輪廻というものだ。病気やけがで早くして人の世話になったとしても同じことで、これらの世話をすることが人間としての義務であり生きている証なのだ。だから、フィリピンにおいては「人の迷惑を受け入れて面倒をみること」は「美徳」なのだ。

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