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 12月21日住まいのあるコンドミニアムで小火が発生した。オーナーの不在中に何らかの原因で家具に火がついたらしい。我が家のメイドが窓から煙が出ているのを発見しすぐさま消防署に連絡したのだが、すでに他からも通報が行っていた。火は段々大きくなる一方、十数分後に2台の消防車がやってきた。   しばらくの間サイレンが聞こえたが、コンドの入り口で手間取っていたらしい。入り口は少し急な坂になっているので、消防車が登れなかったのかもしれない。到着後、なにやらばたばたと消防員が準備していた後、放水が始まった。  放水から数秒後、あっけなく火は消えてしまった。その後しばらく放水を続けていたが、瞬間の出来事だった。放水は簡単に窓ガラスを壊し、その威力をまざまざと見せ付けた。小火とはいえ、出火から消火まで本物の火事のプロセスを見るのは我が人生で初めてだった。  普段は閑散としたコンド内の通りだがこのときばかりは、よくまあというほどの人出だった。火事とけんかは江戸の花などというが、人々は興味深げにノンフィクションのショーを見物していた。マカティの消防署は車で5分程度のところにあり、迅速な対応が可能だったのが幸いだったが、これが燃え移ってコンド全体の火事にでもなったら大事だった。教訓として家や事務所には消火器を購入し、いつもバケツ一杯の水を用意しておくことにした。

コンドで小火発生2008年12月22日


 地球温暖化が取りざたされている昨今だが、12月17日の早朝、バギオはこの冬一番の寒さ、10.8度を記録した。マニラも19.1度だった。フィリピン厚生省は風邪や発熱の注意報を発令した。20度という気温はフィリピン人にとって相当な寒さである。雨上がりなど気温が25度以下に下がると我々日本人は心地よく感じるが、フィリピン人にとっては寒いと感じて長袖やジェケットを着る人が出て来る。フィリピン人が寒いと言うと、私は「寒いのではない、暑く無いだけだ」といつも言い張っている。本人が寒いと感じるのだから勝手なことなのだが、本当に寒いといえるのは10度以下に気温が下がったときだけのはずだと思う。  しかしバギオは1000mを超える高地にあるだけに本当に寒くなるときがある。一度Tシャツ一枚に半ズボンで何の着替えもなしに出かけたことがあった。あいにくの雨模様だったが、しばらくの間外で待たされた時、寒くて寒くてふるえが止まらなかった。それでも長袖にズボンだったら何の問題もなかったろう。しかしフィリピンで寒さに震えるなんて想像だにしなかった出来事だった。  この日、今年一番の寒さにバギオの人々はジャケットにマフラーそれに手袋のいでたちだったという。バギオでは普段でもマーケットなどではジャケットを着ている人を見かけるが、とにかくフィリピン人は寒さに弱い。しかしかのジャパユキさんは日本の寒さをどう凌いだのだろうか。郷に入っては郷に従えのことわざのようにすぐに順応してしまうらしくて、日本の寒さをそんなに恨めしそうに言うジャパユキさんはいない。それよりも一冬過ぎてフィリピンに戻ってくると皆色が白くなって美人になって帰ってくる。  元来フィリピン人はスペインや中国の血を引くために、地は案外色白で、普段は陽に焼けて黒くなっているだけなのだ。そこで、話はちょっとずれるが、肌の色について興味深い話を一つ披露したい。 いつか、NHKで色の黒い白いは日光の強弱に人類が適合した結果だという番組をやっていた。元来人類はアフリカで生まれ、体毛を捨てた黒い肌により強い日光から身を守り、草原を走り回って多くの獲物を捕まえ繁栄して行ったそうだ。人類が世界に散らばる過程で日光の乏しい北方に移動するためには数万年の時が必要だったという。それは白い肌を得て、少ない日光を有効に体内に取り入れ骨の形成に必要なビタミンDをつくる能力を獲得するのに何百世代もの世代交代による進化が必要だったのだ。一方日光の強い南アジアには人類はあっというまに広がっていった。その名残が今でもニューギニアやオーストラリアの原住民に見られる。  現代は飛行機でその日のうちに北や南の国に移動できる。その結果、イギリスに住むインド人の子供が日光不足でクル病にかかったり、オーストラリアでは強すぎる紫外線のために皮膚がんにかかる白人が多発しているという。要は彼らは短期間の内に肌の色を変えることができないためにこのような病気になってしまうのだ。一方、かのジャパユキさんは、北の日本にいると白くなって、フィリピンに戻ると黒くなるという、住むところの気候にたくましく適合しているのだ。これはなにもジャパユキさんに限ったものではなく、東洋ないし東南アジアに住む人々の全般的特徴ではないかと思う。色黒の白人というのは聞いたことが無いし、黒人は何百年アメリカに住んでいても黒いままだ。そうなると世界の距離がなくなった今、世界をまたにかけて活躍できるのは肌の色を変えるという特殊能力をもったアジア人=黄色人種ではないかと思う(ちょっと誇大妄想のような気がしないでもないが)。

フィリピンに寒波襲来2008年12月19日



 12月17日は先日、デラ・ホーヤとの世紀のミスマッチといわれた試合に勝ったフィリピンの国民的英雄マニー・パクヤオの30歳の誕生日だった。テレビに放映された誕生日を祝う様子はまさに国家的行事だった。故郷ゼネラル・サントス市で開催された誕生パーティにはアロヨ大統領を初め、上院議員、パクヤオと試合を行なった元世界チャンピオンなど2000人を超える人々が招待された。会場はラスベガスを模した舞台がしつらえられ、ショーもラスベガススタイルだった。さらに会場がから1.5kmはなれた一般人の会場では誕生会の模様がモニタースクリーンに映し出され、5千人を超える人々が、レチョンを初めとする無料の料理に群がった。スポンサーであるサンミゲルビールからは大量のビールが振舞われ、くじ引きの一等賞は家一軒という豪華な景品が出たそうだ。  パクヤオはゼネラル・サントス市の貧しい家庭に育ち、少年時代サリサリストアから借りたパンを食べ、ボクシ ングの試合に臨み、賞金でその代金を支払ったという。その後、パン職人として生計を立てながら、世界チャンピオンへの道を歩んだ。まさにアメリカンドリー ムを成し遂げたゴールデンボーイだ。    パクヤオは50人にのぼるメイド、ドライバー、ガードマンなどを雇い、フィリピン人の雇用に寄与しているという。もっぱらラスベガスで試合を行い数百万ドルという外貨を稼ぎ、それを多くのフィリピン人にばら撒いているというわけで、おおいに結構なことだ。かつての独裁者のように国民を搾取してそれをスイスの銀行に溜め込んでいたことなどと比べるとはるかにフィリピンに寄与していることになる。フィリピンの人気テレビチャネルABS-CBNのアナウンサーの質問に答えるパクヤオもその顔を見るとその辺のフィリピーノとなんら変わらないのだが。  パクヤオも多くのフィリピン男性と同じように美貌の妻の尻の下に敷かれているそうだ(フィリピンではこれを「アンダー・デ・サヤ/ペチコートの中」と表現する)。メスティーサ(白人との混血)の妻は妊娠中で現在ラスベガスに滞在中。パクヤオも誕生会のあとラスベガスに戻り妻とともに暮らし、次回の世界戦に備えるとのこと。

英雄パクヤオの誕生日2008年12月18日


 この日、12月7日の昼過ぎ、マニラの街は人影もまばらでひっそりしていた。ミンダナオのMILF(イスラム系反政府武装組織)と国軍との戦いも申し合わせたかのように全面休戦となり、犯罪の発生もゼロ、警官にとっても安心できる一時となったようだ。それは、フィリピンの国民的英雄であるWBCライト級チャンピオンのパクヤオと伝説の王者デラホーヤのノンタイトル12回戦がラスベガスで行なわれたからだ。イスラム戦士も犯罪者も軍隊も警官もほとんどすべてのフィリピン人がテレビの前に釘付けになり、戦争や犯罪に構っているどころではなかったのだ。これをパクヤオ効果というそうだ。  パクヤオは現役の世界チャンピオンで、しかも4階級制覇という偉業を成し遂げたボクサーとして油の乗り切った29歳だ。一方、デラホーヤはすでに39歳 (新聞では35歳とも書かれているが、どちらが正しいかは不明)、6階級制覇という偉業を成し遂げたとはいえ、7年もの間、試合から遠ざかっているとも言われ、結果は火を見るより明らかだった。(写真はテレビで映し出されたラスベガスの夜の街並みとリングでフィリピン国家を歌う歌手)  パクヤオのファイトマネーは5億ペソ(約10億円)というフィリピンでは天文学的数字だそうだ。こんな大金をどうやって使うのか気になるところだ。先の 2007年5月に行なわれた統一選挙でミンダナオのジェネラルサントス市から下院議員に立候補したが惜しくも落選した。選挙には1億程度のお金がかかるというから、このお金で大統領選にでも打って出ようというのかもしれない。  ラスベガスのMGM GRANDというところで行なわれたこの試合はノンタイトル戦であるにもかかわらず、前座で世界チャンピオン戦が二つ行なわれるほど。この試合に対する注目度がうかがい知れる。フィリピンの各所では映画館や体育館に特設会場が設けられ、500ペソでこの試合の実況中継を見ることができる。また、マニラのカラオカン市では市長が無料で十数か所に特設会場を設置し、無料で市民に観戦を楽しんでもらうというしゃれたことまでやってくれた。国軍では本部敷地内の体育館に大型スクリーンを設置して兵士に観戦させたそうだ。  一方テレビ中継はこの試合が終わってから始まるというもので、興味が半減するが、わざわざ500ペソ払って観に出かけるのも億劫で家でテレビ観戦ということになる。実際何時から始まるのかは試合の進行状況によるので、10時ごろからつまらない前座を見る羽目になってしまう。ラウンドが3分で合間のコマーシャルが4分とやたらコマーシャルが長い。パクヤオの試合がやっと始まったのは午後の2時前で、その時は携帯で知らせが入ってパクヤオが勝った事が知れ渡ってしまっていた。余計なことをするものがいるものだと腹立たしいこと仕切りだった。  さて試合が始まってみると、4分のコマーシャルが8分に延びてしまっている。3分のラウンドの合間に8分では間のもたせようがない。高い放映権を支払っているのだから仕方のないことかもしれないが、それにしても長い。一方試合の方は7ラウンドからパクヤオの一方的なものとなり、8ラウンドが終わったところでデラホーヤがギブアップしてしまった。いくら往年の名選手とはいえ、39歳ではその力の衰えは明らかで、パクヤオの早い動きには全く付いていけず、ワンサイドの試合になってしまった。(赤いトランクスがパクヤオ)  デラホーヤの顔はパクヤオの鋭いストレートパンチで腫れ上がり、まさに敗者の顔だった。一方パクヤオは勝利を知ると、しばしリングのポストで神に感謝の祈りを捧げ、その後両手をあげて喜びを全身で表していた。  テレビではしばらくの間、リングの周囲に陣取るフィリピン人の喜びの様を映していたが、かなりのフィリピン人がこの試合を見るためにアメリカに渡ったらしい。ちなみにリングの上でパクヤオを抱え上げていたのは、なんとフィリピンのデ・カストロ現副大統領だったそうだ。パクヤオがフィリピンに帰ってくるとアロヨ大統領の祝福を受けるためにマラカニヤン宮殿を訪問するのが恒例で、パクヤオは今やフィリピン国民にとって紛れもない伝説の英雄なのだ。

マニー・パクヤオ対オスカー・デラホーヤの戦い2008年12月7日



 昨夜、8時過ぎに家でくつろいでいたら、メイドがドアをノックして、ダダがテレビに出ていると騒いでいる。今年の6月ごろ、しばらくの間フィリピンで放映されていた韓国KBSの報道番組が再び放映されていたのだ。そういえば最近、知り合いのフィリピン人に会うたびにテレビで見たといわれる。毎週木曜日夜8時、IBC13チャンネルでしばらくの間放映されるそうなので是非見て欲しい。フィリピンでの日本人や韓国人の退職者の生活振りが紹介されている。以下の写真はその時の取材の模様だ。今回は取材のときの様子で未公開の写真を掲載した。  タバコの農場の風景を撮影する取材陣。コーディネーターはフィリピン在住韓国女性のルディアさんだ。 即席のパーティを開いて演出するが、こんな大掛かりなパーティは最初で最後だろう。もちろんパーティのスポンサーはKBS。相棒の家族、姻戚、ご近所総出で50人くらいは集まったろうか。それにつけてもフィリピン人はのりがいい。 翌日は近所の学校や農場で取材の続き。どこへでもしゃしゃり出ていくカメラマンの図々しさにはあきれる。 空港で最後の一枚  

韓国KBSの取材(その2)2008年11月28日


 原油価格が1バレル50ドルを割り込んで、ガソリン価格も毎日のように下がり続けている。一時リッター60ペソを超えたものが、40ペソ前後まで下がっている。円換算すると150円(1ペソ=2.5円)が80円(1ペソ=2.0円)と円高の影響もあって半分近くになっている。自家用車組みには大変うれしい事態だが、もっと喜んでいるのはタクシードライバーだ。前回、ガソリン代とバウンダリー(車の使用料)を払うと1銭の手取りも残らないと書いたが、その後政府は30ペソの初乗りに対して、一律10ペソの上乗せを決め、タクシードライバーの収入を確保する策をとった。現在、ガソリン代が40ペソに下がった上に、この10ペソの上乗せも健在で、タクシー運転手は笑いが止まらないという状況なのだ。 そこで、タクシーの懐具合を計算してみよう。まず運転手からヒアリングしたデータだ。 ・一日の走行距離の平均:250km ・平均乗客数:35人 ・バウンダリー(車の使用料):1050ペソ(16時間) ・初乗り料金(500m):30ペソ、500m以降 2.5ペソ/300m ・上乗せ料金:10ペソ/乗車 ・燃費:7.5km/L 次にガソリン代が60ペソ、40ペソの場合の収支比較だ。    項目        ガソリン代60ペソ   40ペソ ガソリン代(33L)       2000ペソ    1330ペソ バウンダリー         […]

ガソリン代が下がってタクシー運転手はホクホク顔2008年11月24日



 フィリピンに格安航空券の旋風を巻き起こしたゴー・コンウエイ率いるフィリピン第2位の航空会社セブ・パシフィックが11月20日ついにマニラー関西空港に就航した。料金は往復2000ペソというが、サーチャージなどが上乗せられて18000ペソ、それでも競合他社の半値に近い。週3便と限定されているが、是非増便して、成田からも飛んで欲しい。そうなればフィリピンがもっと日本に近くなるはずだ。ちなみにセブ・パシフィックはどの国内便もエアバス社の最新鋭中型旅客機を使っているので多分写真と同じ飛行機が大阪へ乗り入れたに違いない。  現在最新鋭の第3ターミナルがセブ・パシフィック専用に使われているが、前にも紹介した通り、広々としたモダンなターミナルだ。フィリピン第1位のフィリピン航空(PAL)は第2ターミナルを専用に使っているが、それよりもはるかに規模が大きい。ひょっとしたらセブ・パシフィックがターミナルのサイズのみならずPALを追い越してしまう日が来るかもしれない。そうなるとPALのオーナーのルシオ・タンも真っ青になるだろう。いずれにせよ両者とも中国系の財閥で、いろいろなところでしのぎを削っているのだ。  ちなみセブ・パシフィックは北からソウル、台北、香港、バンコック、クアラルンプール、シンガポール、ジャカルタと東南アジアの主要な都市をマニラと結んでいる。今まで日本への乗り入れがなかったのが不思議なくらいだ。このようなフットワークの良い航空会社が活躍すると他の航空会社も刺激されて、もっと魅力のあるサービスが受けられるようになると思うのだが。

マニラー関空に格安航空のセブ・パシフィックが就航2008年11月21日


 国連人口基金の発表によると、フィリピンの2008年の推定人口は8970万人で、2007年より380万人増加したそうだ。2000年代の平均の人口増加率は約2%、したがって5~6年の内に1億人に達する見込みだ。 東南アジアではインドネシアについで2番目の人口大国で、減少に転じている日本の人口が1億2790万人だそうなので、このままでは15年後位に日本の人口を抜くのは間違いないだろう。ちなみにマニラ首都圏の人口は2007年に1055万人と1千万人の大台を突破し、全国の人口増加割合よりはるかに大きく、地方から首都圏への人口の流入が激しい証拠だ。写真のようなフィリピンの若者達がこれから子作りに励むとなるとこの傾向は決して変わらないだろう。  ちなみに私が初めてフィリピンにやってきた1989年には、フィリピンの人口が7000万人、マニラ首都圏が700万人、国土面積は日本の70%、また島の数が7000と7づくしで大変憶えやすかった。あれから19年、ずいぶんと変化したものだ。フィリピン政府はこの人口増が貧困増につながると人口抑制にやっきとなっている。しかし、あの子供好きなフィリピン人から子供を奪ったら一体何が残るのか。子供が唯一の幸せと考えている彼らから子供を奪うことなどできなはしないし、はなからあきらめた方が賢明というものだ。カトリック教会でも現在下院に提出中の「人口抑制法案」に対しては徹底抗戦の構えだ。  フィリピン人はほとんど見境もなく子作りに励んでいるように見える。たとえ経済的に許されなかろうが、結婚していまいが、お構い無しだ。避妊がはばかれ、堕胎が禁止されているから、妊娠すると皆出産することになる。したがってシングルマザーも多いが、いずれの場合でも子供たちは家族中の愛情を一身に受けてたくましく育っていく。そして子供を育てることが親の生きがいであり、親子ともども幸せなのだ。仕事があるから、面倒を見れないから、経済的に難しいから、などなどと理由を挙げて、子供を作らない、あるいは妊娠してもおろしてしまう、という日本の発想は、なにかおかしいのではないか。フィリピンの方が自然で愛と幸せに溢れているのではないかと感じるのは私だけだろうか。

フィリピンの人口が9000万人に肉薄2008年11月20日



前回に引き続きターミナル3の開港(その2)、到着ターミナルを紹介する。 今回は空港の東側から着陸したために、マカティ市の東に開発中のボニファシオグローバルシティの全景を眺めることができた。その後ろのビル群がマカティ市の中心街でフィリピンのもっとも近代的な光景をなしている。 全長1kmを超えるであろうと思われるターミナル3は未だそのほんの一部を使っているに過ぎず、ターミナルの端にセブパシフィックの中型機が数機、駐機しているだけだ。 ターミナルビルに入るとゆったりとした通路を経て、自然に荷物の受け取り場に到着する。もともと国際便用に設計されているために、入管や通関のブースがあるが国内便では使用されていない。通関を過ぎるとすぐに広々とした出迎えロビーに出て、出迎えの人に会うことができる。その点出迎えが大変困難なターミナル1とはずいぶん様相を異にする。  ターミナルビルを出ると長いタクシー待ちの行列がある。下手をすると1時間待ちかと覚悟しなければならないほどだが、さらに道路を渡ったところにクーポンタクシーのブースがあり、そこで申し込むとほとんど待たずにマカティまで440ペソで行ける。黄色の空港タクシーなら200ペソ程度ですむが、長いこと待たなければならないことを考えたら安いものだ。ただ、クーポンタクシーの存在がわかりにくいのでどうにかして欲しいものだと思う。  

マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港(その2) 2008年8月19日


 6年越しに開港が遅れていた第3ターミナルがついに開港した。当面はセブパシフィックなどの国内および国際線が供用を開始しているが、ゆくゆくは最新鋭の国際旅客ターミナルとして、現在の第1ターミナルにとってかわるものと期待される。6年前に完成したとはいえ、40年近く経過した第1ターミナルとは比較にならず、高い天井と広々とした空間は成田空港と比較しても遜色がない。旅客もまだわずかで、ほとんど待つことなしに待合室までたどり着ける。レイアウトもシンプルで自然に各種手続きを進めることができ、迷うという心配が全くない。  マニラからのアクセスもよく、サウススーパーウエイの料金所の手前を右折すればすぐにターミナルに到着する。以前のように渋滞や川べりのスラムを経由することもないので違和感無くマカティの近代都市にたどり着くことができる。このアクセスの改善はフィリピンの印象を向上させるのに大いに役立つだろう。特にフィリピン航空を除く国内線ターミナルは狭く、不便で、汚くて、まさに後進国でございます、と主張しているようなものだった。  第 3ターミナルは日本の竹中工務店が請け負っていたものだが、天井の落下事故をきっかけに、構造上欠陥があるとフィリピンの大手設計コンサルタントが指摘し、工事中断に追い込まれて完成が滞っていた。空港公団と竹中工務店が鋭意工事再開と完成に向けて交渉していたが、交渉は二転三転し、つい先日交渉決裂となってしまった。 ところがごく最近アロヨ大統領が早期開港を指示し、外遊の際、強引にターミナルを使用し、あっという間に開港の運びとなった。工事の再開と完成のニュースが無いうちに開港の運びとなってしまったわけで、なにがなんだかわからないけれども、実際に使ってみてなんら支障はないようだ。  まだほとんどのブースは空で、買い物などの楽しみはまだ先の話だろうが、簡単な食事など最低限の店は出ている。待合所もたくさんの椅子がゆったりと配置され、窓からの空港やマカティの景色を味わうことができる。航空便の掲示も見やすく、とにかく通路が広々としているのが休まる。ここではフィリピン独特の喧騒と混沌とは無縁だ。

マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港 2008年8月13日