shiga


  イントラムロスから北へ進むとパシッグ・リバーの向こうはチャイナタウン(ビノンド)だ。さらに北に向うとデビソリアに出る。そこは街中が商店あるいは問屋というフィリピン全土の問屋街として機能している。この日はニノイ・アキノ・デイで祝日ということもあり、街は人で溢れかえり、不況どこ吹く風の活気と喧騒そして混沌に満ちていた。  デビソリは数多くのモールがあるがそこにあるのは1~2坪程度の店が大半で、あらゆる雑貨を扱っている。その中心はトトバン・モールでそこだけは冷房のきいた快適なショッピングが楽しめる。この界隈のお店の総数は万を超えるのではないかと思う。   レクト通りに入るとそこにはジープニーが溢れ通りを渡るのも命がけだ。横丁に入ると道路は露天商が占領し、人とすれ違うのも容易ではない。その両側はすべてモールで衣類や生地そしてウエディングドレスの専門店などが奥深くまで連なっている。    レクト通りの南側は衣類や雑貨が中心だが、北側は野菜などの生鮮食料品を売る店が連なり、かなり様相を異にする。  価格はマカティのショッピングモールあるいは一般の店の半分以下、衣類でもバッグでも2~3百ペソ程度で、500ペソ(1000円)を超えるものはあまり売っていない。この日、私はサムソナイトのポシェットを450ペソで買った(もちろんコピー商品だがちゃんとタグがついていた)。連れの友人はバーバリーの女性用のバッグを400ペソで買った(バーバリーのライセンスを持っている三陽商会のタグまでついてた)。日本ではたとえコピー商品だとしても万単位の値段がするそうで、香港、ソール、バンコックなどと比べてもここが格段に安いという。    トトバン・モールの前には袋を売る人が待ち受けている。買い込んだ物をこの袋に入れて持ち帰ってくださいということだ。買い物が嵩んだときはこの袋が大変重宝する。一つ100ペソ程度で買える。  デビソリアは通りごとに専門が異なり、デパートのように一箇所ですべてを賄うというわけにはいかない。どこで何を扱う店が集まっているか知らないと安い買い物は出来ない。あるビルではすべてがおもちゃ屋というわけで、そこに行く着くにも人ごみをかきわけ、相当のエネルギーと覚悟がなければデビソリアで買い物をしようなどとは思わないほうがよさそうだ。

フィリピン全土の問屋街、デビソリア訪問 2009年8月24日


 8月1日未明、かねてから結腸癌を患い闘病生活を続けていた元フィリピン大統領コラソン・アキノが亡くなった。76歳だった。夫の暗殺を契機に政治家へ の道を歩んだ彼女は、1986年大統領選の不正を訴え、エドサ革命で独裁者マルコスを国外に追放し大統領の座についた、というフィリピン近代史の立役者 だ。   長年マルコスの政敵として活躍した夫、ベニグノ・アキノを暗殺され、悲劇のヒロインから大統領へと転じたコーリーはコファンコ・ファミリーという大富豪の出 でありながら、生来の清廉潔白な性格で多くの支持を集めた。マルコスの負の遺産を一掃し、経済を立て直すほどの政治手腕はもっていなかったが、素人だから こそ出来たという、フィリピンの将来を見据えての数々の法案を制定した。   現在でも、政治的な影響力は絶大なものがあり、エドサ革命2でエストラーダを大統領の座から引きずり下ろし、憲法改正によるアロヨ政権延命の画策を防止することに一役買い、死ぬ間際まで国を憂えるフィリピンの指導者だった。    1日から2日にかけてグリーンヒルで行なわれた通夜に参加した人は、炎天下あるいは雨の中を長蛇の列を作り、夜を徹してコーリーとの別れを惜しんだ。テレ ビのニュースは通夜の模様一辺倒で他のニュースは全く放映されず、通夜の実況中継(写真の男性はエストラーダ元大統領)やコーリーの写真の映像を流し続け ていた。3日朝、遺体はイントラムロスのマニラ・カテデラルに移され葬儀が行なわれる。そして、5日(水)は埋葬で、祝日となる。     テレビ放映の中でも延々と出演し続け、母との思い出を涙ながらに語っていたのがクリス・アキノ、コーリー・アキノの4番目の娘だ。クリス・アキノはフィリ ピンNo.1の女優として人気を誇っているが、自らが司会を務めるバラエティ番組の「ショー・ビズ」の特別番組に出演し、相棒の男性司会者相手に数時間語 り続けた。  […]

巨星逝く コーリー・アキノの死 2009年8月3日



 2ヶ月ほど前にマニラの北120kmにあるターラックに移住した退職者の方がジャンク・ショップを始めるというのでジャンク・ヤードの建設現場を訪問した。ちなみにターラックは昨日なくなった元アキノ大統領の実家のあるところだ。   まだまだ自分は若いのでフィリピンでなにか事業をやろうと思っていたのだが、ジャンクショップをはじめたフィリピン人の知り合いがやたらにはぶりが良いのでこれ しかないと即決した。この方は日本で道路建設に携わった土木屋さんで、現場工事や人夫の使い方、資材の調達、運搬等については腕に覚えがある。事業モデル が単純なので、これならやれると自信を持ったそうだ。  まず、鉄くずなどを保管するヤードの確保に1,000m2の用地を平米500ペソ、50万ペソで購入した。次に鉄くずを集める2トントラックと引き取り 先の工場へ搬送する14トントラックを100万ペソで購入。さらに敷地の造成、舗装、事務所等に50万ペソ、運転資金に50万ペソ、締めて250万ペソ (500万円)の資金を投入する予定だ。   さすがに土木屋さんでやることがしっかりしている。ジャンク・ヤードは砂を50cm程度敷き詰め、その上に10cm程度のコンクリート舗装を行なう。そうし ないと粘土質の地盤は大型トラックの通行で泥沼になってしまう。飲料や洗浄用の水も必要だ。井戸は約60フィート、泥水を循環させ、手掘りで堀進めてい る。これで岩も貫いてしまうらしい。   ジャンク・ショップ経営の採算性の計算は単純だ。10ペソで鉄くずを購入。それを14ペソでマニラの北方のバレンツエラの工場におろす。スモーキー・マウンテンで有名になったようにフィリピンにはゴミを拾い集めて生計を立てている人がごまんといる。まとまった鉄くずの出るウエルディング・ショップ(鉄工所) などからは2トントラックで回収する。この14トントラックには実質25トン詰めるそうで、一回の輸送で10万ペソの粗利が出る(1kg4ペソの粗利なら […]

ジャンクショップの勧め(廃品回収業)2009年8月2日


 高架鉄道(LRT及びMRT)の充実がメトロマニラの地獄の交通渋滞を解消する切り札であることは再三述べてきた。ここ1年アンヘレスに行く用事が増えて、マカティからEDSAを経由してNLEX(北部ルソン高速道)へ向うたびにそのことを強く感じている。そして昨年末、LRTとMRTを接続する EDSA沿いの残りの5kmが着工されたのを見て、フィリピン政府もやる気はあるんだと安堵したものだ。  前回はここに高架鉄道を延ばしてほしいという期待を述べた。その後、インターネットで実際の計画を知ることが出来たが、私の期待と計画はかなり似通っていた(画面をクリックして拡大して見てください)。 1.1.LRT1 -Monumento駅から北、Malabon、Valenzuela方面:Monumentoよりも少々南のBrimentritt駅から北へ向うNR(Northrail)線で、マニラ市外を斜めに縦断している(橙色の線)。 2.MRT- North Avenue駅から北東Quezon City、North Caloocan方面:MRT4として近々着工が予定されているそうだ(緑色の線)。しかしMRT4はNorth Avenueが終点ではなくて、さらにDoroteo JoseでLRT1と接続し、マニラ市街を横断する。そうなれば、ケソンの北方、フェアビューなどへのアクセスは飛躍的に向上するだろう。 3.環状線を横断するLRT2-Santolan駅から東、Marikina、Cainta方面:LRT2の延長は残念ながら計画になかった。 4.LRT1-Baclaran駅から南、Paranaque、Laspinasを経由してカビテ県方面:MRT6として計画されているローカル線だ(紺色の線)。 5.MRT- […]

メトロマニラ高架鉄道の建設状況(その3)2009年7月27日



 パソンタモ通り、マカティ・スクエア向かいの和食レストラン「MARUCHAN」の人気が上昇中だ。リトル東京の瀬里奈と姉妹店だが、店内は瀬里奈に比べてはるかに広々としてゆったりしており、駐車場も大きくて便利だ(なお現在、2013年は、サイカという名前で営業中)。  その人気を象徴するかのように、今日は日本を代表する高級車セルシオが2台も店の前に止まっていた。ちなみにセルシオのフィリピンでの価格は7百万ペソ、 1400万円だそうだ。ベンツやBMWのフル・サイズに匹敵する超高価格車だ。フィリピンでは商社の支店長、大使、JBICの所長などが使えるステイタス・シンボルなのだ。客席や厨房もゆったりして清潔で良く訓練されたウエイトレスが面倒を見てくれる(ウエイトレスさんたちは恥ずかしがって写真のモデルになってくれませんでした)。  昼時ともなると目玉のランチメニュー目当てに多くの客が集まる。ほとんどのメニューが300ペソ以下で、一番高い幕の内弁当でも450ペソだ。  すし定食を頼むと注文ごとに握っているせいか、時間がかかる。出来立でおいしいので、ここ数日で4回も、ここのすしを食べてしまった位だ。下の写真はメンチカツとすし定食。両方ともボリュームたっぷりでおいしかった。しかも280ペソ(560円)という値段がとてもうれしい。ちなみにフィリピンは世界で唯一和食が日本よりやすく食べられるところだと言われる。これらの和食は日本に比べて、味の点で決して劣らず、しかも価格的には半分だ。

MARUCHANが人気上昇中 2009年7月20日


 7月17日は台風イサン(6号)の通過でマニラに強い風邪と雨が降った。マカティのパソンタモ通りは恒例の道路冠水で往生したが、マニラ周辺のパシッグ、マリキナ、タギッグなどでは腰まで冠水するところがあり、4000人の住人が避難するほどだったそうだ。  夜、不用意にも下着のままで外へ出てみると、震えるほどの涼しさであわてて家に戻る始末だった。翌日(今日)のマニラ新聞によると、マニラの最低気温は 23.2度で、フィリピン人にとってはコートを羽織るほどの寒さだ。高原都市バギオでは最高気温でも20度に達しないほどだ。6月から本格的に雨季に入っているフィリピンは10月まで、こんな天気が続く。一方、日本は全国的に35度前後まで気温が上昇し、本格的夏に突入している。日本の夏のシーズンではフィリピンのほうがはるかに涼しくてすごしやすいのだ。洪水騒ぎも限られた地域で起きているだけで、住まいをちゃんと選べば悩まされることもない。  そこで、夏場は避暑地としてフィリピンですごすという逆転の発想が成立する。さらに11月から乾季に入るフィリピンは雨も降らず、涼しめの気候が3月まで続く。そして4、5月はフィリピンの夏でそれなりに暑い。そうなると、日本の寒い冬(12月~3月)は避寒のためにフィリピンですごし、桜咲く4~5月の春、そして10~11月の紅葉の秋は日本ですごすというのがお勧めだ。すなわち、11月の寒くなるころにフィリピンに行き、3月に日本へ帰る、そして6 月に再びフィリピンへ、そして9月の残暑も終わるころに再び日本へ帰るという、年に2回、フィリピンと日本を往復する生活だ。    幸い、フライトも4時間足らず、国内を移動する感覚で暑い夏や寒い冬を避けることができる。退職後、フィリピンと日本の両方に住居を構え、このような渡り鳥生活を楽しむというのはどうだろう。そして介護が必要な年になったら、フィリピンに永住し、心優しいフィリピーナに面倒を見てもらおうという算段だ。

フィリピンー日本、渡り鳥生活の勧め 2009年7月18日



  マニラの北方のブラカン、パンパンガ、ヌエバへシア、パンガシナン各州には関東平野を凌駕する広大な平野が広がり地平線が見えるほどだ。そのほとんどが水田で、この地域は雨を水田にためて稲作を行なうせいか、河がほとんどない。雨が降るときに稲作を行なって、降らなければ休耕させるという自然任せの農業なので、せいぜい二毛作が限界だ。   私の田舎のビコール地方も水田地帯だ。あの細長いルソン島の尾っぽの先端に平野が広がり、稲作が盛んに行なわれている。マヨン火山と水田のコントラストもすばらしく、自然と人との調和を感じる。   ところでフィリピンの稲作はほとんど堆肥を使わない。稲穂は短く刈り取り、残りのワラはたんぼを耕すときにすき込んでしまう。これが堆肥代わりになるのだろう。稲穂はたんぼでモミを機械で分離する。モミは袋に詰めて運び出し、田んぼのあちこちには短めのワラの山が残される。これらはその場で燃やしてしまうだが、これで堆肥を作らせようとする私の企ては、肥料や飼料そして農薬など大企業の製品を使うよう役場に洗脳された農夫のために、いつも頓挫する。モミはそのままでは発芽してしまうので、道路や広場に広げて乾燥させる。そして脱穀するまで袋に詰めて保管する。   さて、このモミ殻が来る日も来る日もたまってしまう精米所は、日本では許されていない焼却処分しか手がない。数百年という長い間、この資源が単に燃やされ続けてきたのだ。このモミ殻を粉砕して固め、炭の代替燃料を製造する技術が日本にある。これをフィリピン各市町村に一台づつ備えて、精米所を巡回し、モミ殻燃料を作ったらどうかと思う。その効果は下記だ。 1.モミ殻は人類がある限り永遠に産出される廃棄物(資源)である   2.精米所にモミとして集積され、改めて集積する手間がかからない 3.機械はトラックに乗る程度の大きさなので、一台で数十箇所の精米所を巡回処理できる 4.生産された製品は燃料として販売できる   5.フィリピンの農村地帯では未だ炭が炊事の主体燃料として使われているので需要はおおいにある 6.炭の生産のために必要とする樹木の伐採による森林の消滅を回避できる […]

モミ殻によるバイオ燃料の製造 2009年7月17日


  野暮用でアンヘレスを訪問した際、フィールドアベニューの両替商を覗いてみた。1ドルあるいは1万円に対していくらのペソになるのかわかりやすく示されている。昼ごろ見た時は1万円で5,155ペソだ。最近連日の円高で、レートがどんどん良くなっている。1ドルが91円台をつけたとも報じられており、この先が楽しみだ。  そして同じ日の夕方、仕事を終えて食事に向ったら、さらに5,175ペソに上がっていた。同じ日のうちにレートが変わるなんて聞いたことがない。一方、金曜のマニラ新聞によるとマニラで一番良いレートの店で5,190ペソだから、アンヘレスのレートも悪くない。  退職者にとって為替レートの変化は死活問題だ。年金や蓄えに頼って生活している人がほとんどだから、その変化に一喜一憂する。2004年~2006年、私がPRAにいた時代は1万円が5,000ペソ前後を推移していた。また、PRA定期預金の金利も良いところで4~5%で、大いにフィリピンに生活することのメリットを説くことができたものだ。換算も1ペソ=2円だから極めて簡単。「100ペソという値段がついていたら、2倍して200円、物価差5倍を考慮して、さらに5倍して、1000円、すなわち、100ペソなら、10倍して1000円、1000ペソなら1万円と思えば、高い安いの判断が出来る」という 10倍理論もこの時登場した。  その後2007年に入ってペソが急騰して、1万円が4,000ペソを割り込むどころか、3500ペソにも達する勢いで、退職者の収入が3割も目減りしたばかりか、利子も半分程度に下降し、フィリピンに住む魅力が大いに減少した。この異常なペソ高は誰にも予測できなかった。しかし、ある目ざとい退職者はそれ以前にPRAのドル預金を全額ペソに変更し、さらにペソの高値の際にドルを買い戻したというのだから賢い。  関連記事は下記にアクセス。 2007年5月22日掲載ニュース「ペソが急騰しています」http://www.pasco-ph.com/main/index.php?pid=352 2008年10月27日掲載ニュース「ペソが急落しています」http://www.pasco-ph.com/main/index.php?pid=481    円高が一段落した今年の前半、4,800~4,900くらいで推移していたものが、ここに来て1ドルが90円にせまる勢いで、対ペソレートも軽く、 5000ペソをこえた。そもそもペソはドルに連動しているので、円高はそのままペソとの交換比率に影響する。ドル建て定期預金の利子が上昇する兆しはまだ見えないが、これが前のように4~5%に戻ったら、昨今の暗い日本を脱出し大挙して退職者がフィリピンに押し寄せるのではないかと期待しているのだが。

円高で退職者はハッピー 2009年7月12日



 先日、ビザの件で相談にこられた退職者の方が、開口一番、「いやー、フィリピンの洗礼を受けました」と仰られた。朝一、両替したら、1万円で5000ペソになるはずのものが3500ペソしかなかった、確かに店で数えているのを見ていたらあったはずなのに、後で数えたらたりないというのだ。当方の反応は「やられましたか、でも1万円だけ代えたというのは正解です。レートが良いというので欲をかいて、10万円とか100万円とかいう大金を両替して、騙される人が後をたたないのです。1万円でよい勉強をしましたね」だ。  労せずして儲かる話というものは世の中には決してあるものではない。苦労しても苦労しても儲からないのが世の常だ。本当に儲かるのなら人に教えないで自分でやるはずだ。両替店にしても他の店より極端にレートが良い店などあるはずがない。特にエルミタ・マニラにはマジック・マネーチェンジャーがごろごろしており、連日マニラ新聞の一面をにぎわせている。  つい先日、数十万円を両替して騙された日本女性が徹底的に追及してついに相手を追い詰めてついに全額取り戻すという快挙を成し遂げ、話題になった。彼女は30万円を両替して、7万ペソの不足に気がついて、即刻半分の3万5千ペソは取り返したものの、残りは後日返すと約束したまま、相手は行方をくらました。店が再開するのを待ちうけ、残りを取り返したというのだ。その間、警察や市民の協力を得るために、損害以上の費用を費やしたという。しかし騙されたままでは済まないという執念が勝ったのだった。  しかし目の前で数えていて、それがわからないというのだから、まさにマジックだ。数えている最中にたくみに紙幣を隠すそうだが、一度その技を見てみたいと思う。しかし、かの勇気ある日本女性のおかげで警察も重い腰を上げて取り締まりに乗り出したというから、そのチャンスも当面ないかもしれない。警察は捜査にはほとんど協力しなかったというが、警察も多分におこぼれに預かっているきらいがあるので無理もないかもしれない。

マジック・マネーチェンジャーの怪 2009年7月10日


 今年も退職庁(PRA)の創立記念日がやってきた。5年前、2004年の創立記念日に出席したのが初めてだったが、その時、当時のマルセロ副長官やリリヨ長官に強く勧められ、PRA入りを決意したのが昨日のように思い出される。 今回のパーティ会場は、開発が目覚しいボニファシオ・グローバルシティのJAIPURというインド・アラブ料理レストランだ。とても雰囲気のあるレストランで、30分ほど遅れて入ったら、アラビック・ダンスの真っ最中だった。ただ、中規模のレストランなので、参加者が数百人のパーティ会場としてはあまりに狭い。バギオを皮切りにマニラ、クラーク、セブ、ラグナ、ダバオとフィリピン全土でパーティを催すために予算が限られてしまっているためなのだろう。ちなみに、となりはEMBASSYという超高級レストラン・バーで、多くの有名女優や男優が集まることで有名だそうだ。    この日の成果は、私のPRA時代のボスである元副長官のマルセロさんに会えたことだ。元々の彼のビジネスである金鉱山の経営も、昨今の金の値上がりで順調で、そのほかにアメリカの退職者の医療保険のビジネスをやっているそうだ。その外、PRAの会長で、元国家警察長官のゼネラル・アグリパイ、ゼネラル・リンガット長官などと挨拶を交わした。またすでにPRAを辞めているかつての同僚で、カナダ国籍を取得したロエルは私を抱きしめてなかなか放してくれなかった。  ゼネラルリ・ンガット長官の隣にいるのがPRA職員のスカーレットだが )、彼女はパーティで見かけるたびに妊娠している。私の記憶では、これで5人目の子供だと思うが、子沢山は幸せな家族の象徴だそうだ。 フィリピン人の写真好きは格別なものがある。ゼネラル・アグリパイ会長を囲んでのPRAスタッフの記念写真に皆笑顔で集まってきてポーズをとってくれる。まるでパーティを開くのは写真を撮るのが目的と勘違いしているのではないかとさえ思ってしまう。

退職庁、24回目の創立記念に参加 2009年7月8日