KIANがタガログ語に挑戦 2016年7月9日


最近、公文の帰りに、雨宿りとKIANのアイスクリームを買うために立寄ったMini Stop(コンビニエント・ストア)で面白いハプニングがあった。たまたまそこにいたKIANと同世代の子供がKIANに話しかけてきたが、英語で答えるKIANに対して、お前はアメリカ人かと問いかえす。フィリピン人でありながら英語で話すということは、件の子供には理解ができない。だからフィリピン人と言っても納得がいかない。件の子供が入り口においた私の傘をいじろうとしたので、KIANがそのUmbrella(アンブレラ)に触ってはいけない、と注意したら、子供はパヨン(タガログ語で傘の意味)だと言い張る。店の人が傘を英語でアンブレラというのだと教えていたが、その子供はやはり合点がいかない。

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級友とタブレットでゲームを楽しむKIAN

その子供はどこにでもいる当たり前の子供なのだが、どう見てもKIANとは一線が画されているような気がした。KIANも英語を話さない子供に遭遇して面食らっていたようだ。ちなみにドンボスコのような私立校に通う子供は、ほとんどが英語を母国語(第一言語)として話す。そこにはなにか住む世界が違う階層の違いというものを感じる。フィリピンの母国語であるタガログ語を話す人間が下級の階層で、国際語の英語を話す子供が上級の階層なのだ。関係ないかも知れないが、おまけに、これら上層の子供は色白、下層の子供は浅黒い。

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左はいとこのヤナ(10歳)、KIANとの会話はもちろん英語だが、彼女は母親を癌で亡くし、父親に見放され、今は私の農場でおばあちゃんに面倒を見てもらっている。生まれ育ちは下層階級の典型だが、頭がよくて美人なので上層階級への仲間入りのチャンスがあるかもしれない。彼女もKIANと同様、中国人の血が混ざっている。

KIANが2歳になったころ、タガログ語を話すことを禁止され、周囲もKIANと話すときは英語に徹底された。テレビも英語の番組しか見ることが許されなかった。幼稚園でも先生も園児も、すべて英語だ。KIANの周囲は英語に徹底され、6歳を迎えて小学校に入学したKIANは見事に英語を母国語とする子供に育った。もし、彼がタガログ語で育っていたら、幼稚園や小学校で周囲の子供とコミュニケーションをはかることができないという不思議な現象に、ミニストップの子供のような思いを持ったことだろう。

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公文で生真面目に問題をこなすKIAN

しかしながら、ここはフィリピンでKIANもフィリピン人だ。母国語のタガログ語を避けて通ることはできない。学校では当然のことながら国語の時間にタガログ語を教えている。もともと周囲の会話を聞いて、ある程度のタガログ語は理解できるが、口から出てくる言葉は英語だけだ。最近、家では、アティ・キムがタガログ語を教えているが、まるで赤ん坊か外国人のようにタガログ語を話すKIANがとても可愛らしいという。私にとってもKIANがタガログ語を話す様は1~2歳のようでとても新鮮で可愛いと感じる。

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ピアノの発表会も無事にこなしたKIAN

そこで考え込んでしまう私だが、小学校に通い始めた子供が学校で母国語を習うというのは一体何なんだろう。南アメリカのインディオやオーストラリアのアボリジニなどの原住民が、かつての自分たちの言語を取り戻そうと、学校教育にかつての母国語を取り入れるというのは理解できる。しかしながら、フィリピンで一般に話されている言葉、そしてテレビのニュースは皆タガログ語なのだ(もちろん地方ではビサヤなどの方言が話されるが、皆、標準語のタガログ語を理解して話すことができる)。ところが上層階級の子供達は、このタガログ語が話すことができなくて、学校で勉強しなければならないのだ。こんな状況は世界でもフィリピンくらいではないだろうか。ちなみにフィリピンは英語を話す人口が世界で3番目だといい、国民総バイリンガルで、確かにどんな田舎に言っても、ほとんどの人がそれなりに英語を話す。

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MOAのタイムゾーンで姉のKIMとゲームを楽しむKIAN

私は、ここにフィリピンの複雑な文化の原点があるような気がする。ハイスクールまで算数、理科などの教科書は英語、大学にいたっては英語の力がさらに要求され、英語で書かれた資料、論文などを読みこなし、レポートも英語で作成しなければならない。社会に出ると公文書はすべて英語、大統領の演説も英語で行われるなど、まさに国際社会が国内で実践されており、人口の10%が海外で働く(OFW)というボーダーレスの社会だ。

この国際社会を担っているのは、子供のころ、英語が母国語でタガログ語が話せなかった上層の子供たちで、下層の子供達は、上層の子供達の下で運転手、セキュリティガード、建設労働者、メイド、ウエイトレスなどとして、親から受け継いだ貧困を継続し、分厚い貧困層を形成しているのだ。この二つの階層を区分する制度・法律あるいは慣習などはなく、誰でもこの境界線を自由に行き来できる。しかし、私立幼稚園そして私立学校の学費、年間5万~10万ペソをまかなうことは、高々5千~1万ペソ/月の収入しかない貧困層にとって、まさに不可能なことなのだ(おまけにKIANは公文、英語の家庭教師、ピアノ、そして近々テコンドーを習い、月々一万ペソ近い月謝がかかっている)。ここにフィリピン特有の階層社会を形成する原点があるのだろう。さらに、フィリピンには富裕層という特別な階層が雲の上にあるのだが、その辺は、私にとって身近に観察することはできない。上層、下層、そして富裕層と、単に貧富の差というよりも、フィリピンではお金が階層そのものを決めており、そこにキリスト教の説く、万人の平等は存在しないようだ。

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