風俗・風物


従来、路上バトル、交通戦争の主役といえば、タクシーとジープニーだった。タクシーはウインカーも点けずに車線を越えて割り込んで来る、絶対に道を譲らない、交差点の真ん中でも突っ込んでいって交通妨害をするなどなど、交通マナーなどは「破るためにある」、といった感じだ。一方、ジープニーは停車場というものがないので、いつでもどこでも客のリクエストさえあれば、停車する。しかもブレーキランプが点灯する車はまれで、危険この上ない。あの巨体で割り込みも日常茶飯事だ。だからジープニーには5m以内に近づかないのが安全運転の鉄則だ。しかし、車間距離をとったら、すかさずそこに他の車が割り込んでくるのが癪の種だ。 そんな路上バトルに割り込んできたのがオートバイ、それにエコと節約目的が重なって早朝は自転車が闊歩する。 マカティの主要幹線道路であるブエンジア通りとパソンタモ通りの交差点ではオートバイが最前列に並ぶ  最近のメトロマニラの渋滞は、悪くなる一方だ。特に15日と30日の給料日と金曜が重なるとどうしようもない。ラッシュアワーの時は、急いでいるなら歩くというのが唯一の解決策だ。そして、庶民は自己防衛のため、オートバイに乗り始めた。後ろに、妻や恋人を乗せて出勤するオートバイが急増し、交差点の前列にはオートバイがい並ぶ。頼みのジープニーではいつ目的地につくかわからないということで、オートバイに解決策を求めたらしい。 車の前にはオートバイがハエのようにうっとうしくまつわりついてくる  数が増えただけならば問題ないのだが、オートバイと自転車の二輪車族の傍若無人ぶりは目に余る。中央車線であろうが、渋滞でのろのろ進む車をわき目に車の隙間に入り込んで、右から左から、目の前に割り込んでくる。さらには、信号待ちの車の列を尻目に反対車線を爆走して、ひたすら信号の最前線を目指す。まれに車に接触することがあるが、そのまま走り去ってしまう。追いかけようにも車は身動きがとれない。 交差点の最前列に止まったつもりでもいつの間にかオートバイが車の前に集まっている 車と車の間はオートバイで埋まっておりドライバーの頭痛の種だ  確かに、街中の最速は、二輪車族で、その次が歩行者、さらに悪質ドライバーのタクシーとジープニー、最後が乗用車だろう。こんな状況が改善されるとしたら、計画のテーブルにのり始めた地下鉄が市中を走る10年あるいは20年後のことだろう。 車の寸前に割り込んで、横切って行くオートバイ、いつもヒヤッとさせられる  対向車線の間も通り抜けしようとするオートバイの列だ  KIANの水泳教室の見送りは早朝の通勤ラッシュ時なので、特にこの二輪車族が闊歩する。事故が起きないことが不思議なくらいだが、なぜ、取り締まらないのかと思うが、取り締まる規則がまだ無いので、彼らの仁義なき走りがまかり通っているのではないか。 反対車線にまで割り込むので同じ車線をオートバイが対向して走ることもしばしばだ  早朝は、まだ暑くないので、自転車が多いが、日中はさすがに自転車族は姿を見ない。自転車の傍若無人振りもオートバイに勝るとも劣らない。 オートバイほどでもないにせよ、車の前には自転車が堂々とはばをきかせる […]

路上バトルの新参者、オートバイと自転車 2017年5月10日


お正月は、初詣の代わりにグリーンベルトの教会に出かけた。先日、ある退職者の方から、正月、グリーンベルトは開いているかと質問され、お店によりけりでしょうと回答したが、開いているどころではない、初詣客が殺到していたのだ。 グリーベルト5のクリスマスの飾りつけの前で、写真撮影のためにブレーキ、フィリピーノにとって写真を撮ることは何よりも大切なのだ。 クリスマスギフトを模した箱でさえも写真撮影の背景になる   主目的は教会でのお祈りだが、すでに暗くなっていたので、10分ほどで切り上げたが、教会の中、そして外は人であふれていた。 教会の入り口まで人で一杯だ 中はモダンな内装になっており、グリーンベルトのシンボルだ 教会の外にまで参拝客はあふれている  グリーンベルトにはしゃれたレストランが建ち並んでいるが、いずれもかなりのお値段だ。しかし、グリーンベルトのはずれにはそこそこの値段の店がある。今日、訪れたのは今のグリーンベルトが出来る前からあるグリーンベルト1の中華料理屋だ。名前はDAVID TEA HOUSE 麺点皇という大衆中華料理屋だが、おいしい安いという評判で、中は満員だった。雰囲気的にはジュピター通りのルートンマカオと似ている。4皿頼んでビール3本、5人で1400ペソは実にリーゾナブルだ。 David Tea Houseの外観 KIANの大好物のシーフード・スピナッチ・スープはKIANが唯一食する野菜料理で、カップ3杯もたいらげた チャーハンと焼きソバは控えたいところなので、前菜のコールドカットを注文して腹を満たす […]

お正月のグリーンベルトは初詣の人々であふれていた 2017年1月2日



クリスマスともなると、人々は故郷に帰り、街にはいつもの渋滞はない。お出かけには絶好というわけで、マニラの夜を見物にでかけた。お目当てはロックウエルのパワープラント・モールとシャングリラ・ホテルだ。 しかし、出かける前に、この日、2ヶ月目の誕生日を迎えたクッキーの記念撮影がはじまった。そろそろ首もすわってきて、何かを見つめたり、声をかけてきたり、赤ちゃんらしい仕草をするようになってきている。あと2~3ヶ月もすれば、KIANのように周囲に愛嬌を振りまいて、近所の人気者になることだろう。 ヤヤに抱かれておめかしするクッキー ママとのツーショットはそっぽを向いてしまった 一家5人で記念撮影、クッキーは相変わらずそっぽを向いている  クッキーの記念撮影で手間取っている間に、ロックウエルに到着したころは、すでに閉店の9時に近かった。私だけ走って内部に入って写真撮影をしたが、内部は大変な人出で、レストランはどこも満員だった。それでも9時になると、通路の電飾の明かりが消えて人々の退出を促していた。ロックウエルという地名だけに規則には厳しいようだが、クリスマスの掻きいれ時くらいは多めに見てもよさそうなものだ。 もともとロックウエルとは、マカティのはずれにあった発電所跡地を1990年代に再開発したもので、当時、マカティの最高級・高層コンドミニアム街としてはなばなしくデビューした。そして、現在も高層コンドミニアムが幾棟も建設中で、マカティの市街地の近接した高級コンドミニアム街として発展を続けている。 電飾だけのユニークなクリスマスツリー 椰子の木の幹だけでなくて葉の部分にも電飾をほどこすというユニークなデザインだ モールの内部は人でごった返し、すべての柱には電飾が施されている モールの中央の吹き抜けは大きな輪っか状のクリスマスツリーが吊り下げられている ロックウエル伝統の動くトナカイ、今年は白が基調だ  ロックウエルで時間をすごすことはあきらめて、次にむかったのがマカティあるいはメトロマニラの最高級ホテル、シャングリラホテルだ。入り口にはおとぎの世界をほうふつさせる家がしつらえてあった。順番待ちで写真撮影をする家族でにぎわっていた。このとき、お腹がすいたからレストランに行きたいとKIANがしきりに主張するので、ロビーで軽食をとることにした。しかし、ここの料理は一皿600ペソ以下の料理はない。そこでパンシットカントン一皿と、お茶(カモミールのハーブティー)、ビールでお茶を濁すことにした。お腹がすいているのはKIANだけだし、無料のパンが出るはずだから、それで十分のはずだ。 おとぎの家の前で、このとき白人の若い女性から「可愛いい~」歓声が沸き、KIANはうれしそうだった 今年のクリスマスは赤で統一しているカーネル一家 […]

クリスマス・イン・マニラ 2016年12月26日


いよいよ待ちに待ったクリスマスがやってきた。”Merry Christmas”はタガログ語で”Maligayang Pasko” というが、当社の社名のPASCOの由来でもある。例年はビコールの農場で姻戚一同+α、数十人で盛大に催すのだが、ようやく生後2ヶ月のクッキーのため、今年はマニラに留まって質素なクリスマス・イブとなった。ママ・ジェーンの長兄の息子、卒業間近のチャールズが友人と一緒にマニラでOJT(On the Job Training)をやっている関係で、友人二人と居候をしているので、総勢、たったの12人のパーティとなった。 食事の準備も終えて一休み いつもに比べて三分の一程度の量だ(右にコカ・コーラがおいてあるのがちょっと気に障った) 家族一同の写真撮影もあっという間に終わった(右の男3人が居候、生後2ヶ月のクッキーはそ知らぬ顔で居眠りをしている) 生替え中の前歯がちょっと気になるがKIANはいつも一家の中心だ  この日の、主役はもちろん、パーティ男のKIANだ。歌と踊りを披露して一同の喝采をあびた。いつの間にかおぼえたのか、見たこともないステップで即興の踊りを披露したが、流行のPPAPのステップも取り入れている。動画をためしにアップしたので、時間はかかるが、クリックしてためしてほしい。 cimg8102 踊りながら歌うKIAN 歌そのものはなっていないが、そんなことは誰も気にしない 踊りは、なかなかのものだ 踊りつかれて一休み […]

我が家のクリスマスイブ 2016年12月25日



ナビマニラ(無料情報誌)でも紹介された、話題の電飾ハウス、マンダルヨン市、ポリカルピオ通りに見学に行ってきた。ほんの100Mほどの普通の民家で、そのうち3軒ほどがこった飾り付けをしているにすぎない。他の家々は何の飾りもなしに、突然の騒ぎを迷惑そうに静けかえっていた。しかし写真好きのフィリピーノを魅了してやまないようだ。 通りの入り口にはPOLICAPRIOのアーケードがあった ナビマニラNo.28の表紙をかざった電飾ハウス、さすがではある 電飾ハウスの門で記念撮影、KIANはママ・ジェーンの言いつけどおり手を掲げて誇らしそう 2軒目の電飾ハウス、この方がちょっとセンスがあるようだ 最近はカメラを向けると思わずポーズをとるKIANだ 3軒目にはたくさんの屋台が出ていて、お祭りのよう、そうなるとKIANはバーベキューが食べたいと言い張る。一本たったの15ペソ、40円足らずだ 食い意地の張っているのはKIANばかりではなかった。参加者全員があれやこれやと買い食いをはじめた クリスマスがせまる23日、イブの前日と会って、かなりたくさん(100名程度)の見物客が集まっていた。皆、食いしん坊だ、キリストの生誕のジオラマの下には屋台が並ぶ 屋台の売れ筋はバーベキュー(ポークの焼き鳥風)、フレンチフライ、ホットドックなどが本命だ キリスト生誕のジオラマを前に、はいポーズ 帰り、マンダルヨン・シティ・ホールを通りかかると、たくさんの屋台が出ていて、大勢の人でにぎわっていた。まさに師走の喧騒がそこにあった。   電飾ハウスに 、通り全体が競いあって飾り付けをしていると期待していっただけに、たったの3軒だけだったので、ちょっと期待はずれだった。しかし、たったの3軒で20軒ほどの屋台と、これだけの人を集めることができるのだ。もし、これをわが農場でやったとしたら、ファームハウスを使って、もっとましな飾りつけは出来るし、毎日200人程度の人が集まったとして、一人50ペソ程度のお金を落としてくれるとしたら、そして一ヶ月くらい営業したら、どうなるのだろうと、頭が計算をはじめた。  200人x50ペソx  […]

話題の電飾ハウスPolicarpio訪問 2016年12月24日


1989年、初めてフィリピンを訪れたとき、フィリピンには喫茶店がなくて、街でちょっと人と会うときに往生したものだ。仕方がないので、ホテルのコーヒーショップやジョルビーなどでコーヒーを飲みながら話すしかなかった。すなわち、フィリピンには喫茶店という概念がなかったのだ。もっとも、フィリピン人は一日に5回食事を取るというから、人とちょっと会って話をするときもしっかり食事を取るので、それでよかったのだろう。しかし、1997年にスターバックスの一号店が開店してから、マカティのいたるところにスターバックスが開店してフィリピンにも喫茶店文化が根付いた。しかし、喫茶店といえる代物はスターバックスなどのチェーン店だけで、他には見たことはなかった。 ところが、最近、KIANの英語の家庭教師のレッスンに立ち会うようになったのだが、そこは紛れもない喫茶店なのだ。私の住んでいるコンドから歩いて数分のところにあり、住宅街の一角、St. Paul St.とEstrella St.の角を私のコンドと反対に向かった50mくらいの左側にある。その通りは100回以上通過したと思うがついぞ気がつかなかった。下記、HP参照。Coffee 8065, San Antonio, Makati City – Zomato Philippines つくりは普通の民家の一階といった雰囲気で、これといったしゃれっ気もなくて、名前もCOFFEE 8065と地味だ。店の内部は古びていて、スターバックスなどのこぎれいな内装とは異なり、いかにも庶民的で、フィリピンの喫茶店文化の原形を見る思いがする。 […]

喫茶店COFFEE 8065でKIANの英語レッスン 2016年7月31日



KIANの育ての親ともいえるヤヤ・チュー以来、5人目のメイド(ヤヤ・リザ)がやってきた(ちなみに我が家では親しみをこめてヤヤもメイドもひっくるめてヤヤ・....と呼んでいる)。それまでのメイドはことごとく蒸発しまっていたのだ。 KIANが生まれたころはメイドとヤヤ(子守)ということで二人の使用人がいたが(ちなみにKIANが生まれて以来、5人ほどヤヤないしメイドが入れ替わったが長続きはしなかった)、その後、やって来たヤヤ・チューは、子守、炊事、洗濯、掃除と、一人4役をこなしたスーパー・メイドだった。ママ・ジェーンは給与を倍にするから、2倍働けと持ちかけたらしいが、昼間はKIANとずーっと一緒で、いつの間にか、炊事、そして洗濯と掃除をこなし、早朝未明から夜更けまで休む間もなく働いていた。二人の子持ちなので赤ん坊の扱いがなれていて、料理もそこそここなし、我が家にはなくてはならない存在となった。2011年の4月から、2014年3月までKIANが1歳から4歳まで、幼児期を世話してもらったことになる。 ヤヤ・チューはKIANの育ての親とも言える 毎週、土曜日、KIANとヤヤ・チューを連れてサイカ・レストランでランチをとるのが私の日課で、私にとっても心休まる楽しみだった。そんなヤヤ・チューがKIANが4歳の誕生日を迎えるころ、突如として姿を消した。なにか家庭にややこしい事情があり、夫以外の男の子を宿し、夫から姿を消すために行方をくらましたらしい(いつそんな時間があったのか不思議だったが)。ヤヤ・チューはKIANをわが子以上に可愛がっており、KIANも実の母のように慕っていた。しかし、意外にもKIANはヤヤ・チューがいなくなってから、ほとんどヤヤ・チューのことを口にすることはなかった。 KIANの横にいつも張り付いてKIANの面倒を見ていたヤヤ・チュー。この日は我が家でシャブシャブパーティだ そして次にやってきたのが、まだ二十歳そこそこのヤヤ・ドナだ。アテ・キムやビアンカと年が近いだけに、3人姉妹のように仲がよかった。土曜のサイカでの食事はもちろん、タガイタイやプールなどアウティングにも家族の一員として連れ歩いた。しかし、メイドとしての腕は今一で、KIANは、もはや手がかからなくなっていたが、炊事、洗濯、掃除をまともにこなすことができず、アティ・キムやビアンカのお荷物になっていた。ちょっとモダンな女でもあるので、近所の男どもからちょっかいがあって、夜な夜な外出するようになって、ママ・ジェーンの不評を買うようにもなっていった。 年齢が近いアティ・キム(右)、ビアンカ(中央)、そしてヤヤ・ドナ(左)は友達同士のようだった そんな彼女も、ある日突然姿をくらました。ヤヤ・ドナは元々、ママ・ジェーンの親友のところで働いており、暗い過去があるそうなので、ことさら気を使っていた。農場にいるときなどは、幸福感にしたって、涙さえ流していたものを、裏切られたママ・ジェーンの怒りはひとしおだった。その後、侘びが入ったそうだが取り合わなかったそうで、私にもヤヤ・ドナから連絡があったが、シカとするよう、お達しがあってほっておいた。家出した直接の原因は、アティ・キムとの口論だそうだが、ヤヤ・ドナとしては呼びもどされるに違いないという公算があったらしい。ヤヤ・ドナは、一年も、持たなかったが、KIANとしては特別の感慨はなかったようで、すぐに忘れてしまったようだ。 ヤヤ・ドナは農場に帰ったときも、農場に住み込んで手伝ってくれていた しばらく、アティ・キムとビアンカがメイド役をしていたが、二人とも学校に通っていたので、家の仕事が滞り気味だった。そこでやってきたのがヤヤ・オ-ディだった。28歳独身のいかにもメイドらしいい雰囲気だった。しかし、このヤヤ・オーディができもので、料理は抜群で皆をうならせるほど、洗濯、掃除もそつなくこなした。しかし、半年もしないうちに「10年近く働いた前の雇用主が戻ってきてくれと切願された」と辞職を申し入れてきた。その後、しばらくしてKIANの一言で、一旦戻ってきたが、数ヵ月後、やはり消えてしまった。関連ブログ「ヤヤ(子守)が帰って来た」参照。 ヤヤ・オーディは写真が大嫌いで、City of Dreamに行くときも顔を隠してしまった ある日、ヤヤ・オーディが私にさよならを言いに来た。それをママ・ジェーンに告げると、そんな話は聞いていないという。しかし、ママ・ジェーンの話によると、ママ・ジェーンの攻撃に恐れをなして、逃げ出したのだと、せせら笑っていた。詳しい話を聞くと、ヤヤ・ドナはビアンカをそそのかして、一緒に元の雇用者のところで働こうと画策しており、それをママ・ジェーンが嗅ぎ付けて、懲らしめようとしていたらしい。メイドとしては抜群のパーフォーマンスを示して、頭の良い子だった。しかし、頭が良いととなると、ずるがしこいこともするようだ。そのころ、ビアンカも大学を中退させられたので、将来に不安を持っていたらしく、誘いに乗りかけたらしい。 知らぬ間に撮ったヤヤ・オーディの唯一の写真(中央)この写真を見てKIANがヤヤはなぜ僕に怒っているのかと質問してきた […]

メイドが消えてしまった 2016年7月14日


最近、公文の帰りに、雨宿りとKIANのアイスクリームを買うために立寄ったMini Stop(コンビニエント・ストア)で面白いハプニングがあった。たまたまそこにいたKIANと同世代の子供がKIANに話しかけてきたが、英語で答えるKIANに対して、お前はアメリカ人かと問いかえす。フィリピン人でありながら英語で話すということは、件の子供には理解ができない。だからフィリピン人と言っても納得がいかない。件の子供が入り口においた私の傘をいじろうとしたので、KIANがそのUmbrella(アンブレラ)に触ってはいけない、と注意したら、子供はパヨン(タガログ語で傘の意味)だと言い張る。店の人が傘を英語でアンブレラというのだと教えていたが、その子供はやはり合点がいかない。 級友とタブレットでゲームを楽しむKIAN その子供はどこにでもいる当たり前の子供なのだが、どう見てもKIANとは一線が画されているような気がした。KIANも英語を話さない子供に遭遇して面食らっていたようだ。ちなみにドンボスコのような私立校に通う子供は、ほとんどが英語を母国語(第一言語)として話す。そこにはなにか住む世界が違う階層の違いというものを感じる。フィリピンの母国語であるタガログ語を話す人間が下級の階層で、国際語の英語を話す子供が上級の階層なのだ。関係ないかも知れないが、おまけに、これら上層の子供は色白、下層の子供は浅黒い。 左はいとこのヤナ(10歳)、KIANとの会話はもちろん英語だが、彼女は母親を癌で亡くし、父親に見放され、今は私の農場でおばあちゃんに面倒を見てもらっている。生まれ育ちは下層階級の典型だが、頭がよくて美人なので上層階級への仲間入りのチャンスがあるかもしれない。彼女もKIANと同様、中国人の血が混ざっている。 KIANが2歳になったころ、タガログ語を話すことを禁止され、周囲もKIANと話すときは英語に徹底された。テレビも英語の番組しか見ることが許されなかった。幼稚園でも先生も園児も、すべて英語だ。KIANの周囲は英語に徹底され、6歳を迎えて小学校に入学したKIANは見事に英語を母国語とする子供に育った。もし、彼がタガログ語で育っていたら、幼稚園や小学校で周囲の子供とコミュニケーションをはかることができないという不思議な現象に、ミニストップの子供のような思いを持ったことだろう。 公文で生真面目に問題をこなすKIAN しかしながら、ここはフィリピンでKIANもフィリピン人だ。母国語のタガログ語を避けて通ることはできない。学校では当然のことながら国語の時間にタガログ語を教えている。もともと周囲の会話を聞いて、ある程度のタガログ語は理解できるが、口から出てくる言葉は英語だけだ。最近、家では、アティ・キムがタガログ語を教えているが、まるで赤ん坊か外国人のようにタガログ語を話すKIANがとても可愛らしいという。私にとってもKIANがタガログ語を話す様は1~2歳のようでとても新鮮で可愛いと感じる。 ピアノの発表会も無事にこなしたKIAN そこで考え込んでしまう私だが、小学校に通い始めた子供が学校で母国語を習うというのは一体何なんだろう。南アメリカのインディオやオーストラリアのアボリジニなどの原住民が、かつての自分たちの言語を取り戻そうと、学校教育にかつての母国語を取り入れるというのは理解できる。しかしながら、フィリピンで一般に話されている言葉、そしてテレビのニュースは皆タガログ語なのだ(もちろん地方ではビサヤなどの方言が話されるが、皆、標準語のタガログ語を理解して話すことができる)。ところが上層階級の子供達は、このタガログ語が話すことができなくて、学校で勉強しなければならないのだ。こんな状況は世界でもフィリピンくらいではないだろうか。ちなみにフィリピンは英語を話す人口が世界で3番目だといい、国民総バイリンガルで、確かにどんな田舎に言っても、ほとんどの人がそれなりに英語を話す。 MOAのタイムゾーンで姉のKIMとゲームを楽しむKIAN 私は、ここにフィリピンの複雑な文化の原点があるような気がする。ハイスクールまで算数、理科などの教科書は英語、大学にいたっては英語の力がさらに要求され、英語で書かれた資料、論文などを読みこなし、レポートも英語で作成しなければならない。社会に出ると公文書はすべて英語、大統領の演説も英語で行われるなど、まさに国際社会が国内で実践されており、人口の10%が海外で働く(OFW)というボーダーレスの社会だ。 この国際社会を担っているのは、子供のころ、英語が母国語でタガログ語が話せなかった上層の子供たちで、下層の子供達は、上層の子供達の下で運転手、セキュリティガード、建設労働者、メイド、ウエイトレスなどとして、親から受け継いだ貧困を継続し、分厚い貧困層を形成しているのだ。この二つの階層を区分する制度・法律あるいは慣習などはなく、誰でもこの境界線を自由に行き来できる。しかし、私立幼稚園そして私立学校の学費、年間5万~10万ペソをまかなうことは、高々5千~1万ペソ/月の収入しかない貧困層にとって、まさに不可能なことなのだ(おまけにKIANは公文、英語の家庭教師、ピアノ、そして近々テコンドーを習い、月々一万ペソ近い月謝がかかっている)。ここにフィリピン特有の階層社会を形成する原点があるのだろう。さらに、フィリピンには富裕層という特別な階層が雲の上にあるのだが、その辺は、私にとって身近に観察することはできない。上層、下層、そして富裕層と、単に貧富の差というよりも、フィリピンではお金が階層そのものを決めており、そこにキリスト教の説く、万人の平等は存在しないようだ。

KIANがタガログ語に挑戦 2016年7月9日



2月14日(日)は世界的にバレンタインデイ。日本では女性が目当ての男性にチョコレートを贈って気持ちを伝える、ということになっているが、これはチョコレートメーカーの陰謀だそうで、一般的には男性が女性に愛を示すときであるらしい。最近はお目当てというより義理チョコが優勢のようで、チョコレートメーカーは、狙い通りとほくそ笑んでいるに違いない。 ちなみにフィリピンでは、前日、赤いバラの販売所が街中にあふれ、価格が高騰する。我が家にも毎年、大きな赤いバラの花束が当然のようにどこからともなく現れる。もちろん、カーネルからジェーンへのプレゼントだが、私が目にしたときは一緒の特製ケーキにすでに手がつけられていた。食いしん坊のビアンカかアリアの仕業に違いない。 そして、この日は、札幌からフィリピンを訪問されていた藤田さんと出野さんが家にこられ、自慢のたんたん麺をご馳走してくれた。藤田さんは札幌で税理士の事務所を営んでいて、これから企業のフィリピン進出を支援したいと考えている。そして出野さんは札幌に評判のたんたん麺専門店を3店営んでおり、今回はフィリピンへの進出の可能性を探って、進出ブームとなっているラーメン専門店を下見に食べ歩きしているそうだ。 11時を過ぎて、二つのことに気がついた。まず、ラーメンは湯を大量に使うので、事前にお湯を沸かせて置くこと、さらに、我が家には出来上がったラーメンを入れる大き目のお椀がないことだ。お湯を沸かすおなべについては、幸いちょうどよい深鍋があった。一方、お椀については急遽、ビアンカに、近くのスーパーに買いに行かせた。 そうこうしているうちに皆さんがやってきた。藤田さんと出野さん以外に友達のマユさんが一緒だった。さすが、北海道出身、ジェーンやキムも色は白いほうだが、マユさんの桁違いの色白にびっくり。昼も近いので、挨拶もそこそこに早速持参した材料で、ラーメン店オーナーの自らのたんたん麺作りが始まった。 一方、女性陣は早速、談笑と記念撮影に花を咲かせる。ジェーンにとってみれば、赤いバラの花束は、いわば勲章だから手から離さない。そして、私からは、札幌の名物ラーメンの出張サービスがバレンタインのプレゼントだ。 出来上がったたんたん麺はつゆありとつゆ無しの二種類。カシューナッツが入っていて、ピーナッツバターの味がして家系(いえけい)のラーメンとは一味違う。麺も太めで、普通のラーメンとはちょっと違うが、また、中国料理の麺とも一線を画している。    まずは、ラーメンお宅のKIANに試食してもらったが、親指を上にして「Good」と一言、合格点だという。しかし、ちょっと食べて後は手をつけなかった。実はKIANが食べるラーメンは具も何も入っていない麺だけをお皿にとって食べるので、このような味わいのある本格的なラーメンは食べることができないのだ。5歳にして、状況をとらまえてそれなりのお世辞を言うあたりは、すでにフィリピン人としての処世術をすでに身に着けているようだ。 そしてカーネルやジェーンが味見をしたが、これなら優にフィリピン人の食通に受け入れられるというものだった。このほか、サイドディッシュとして餃子ないしチキンのから揚げがほしいとのコメントがあったが、チキンのから揚げも、ラーメンに負けないおいしいものを提供してほしいところだ。何しろチキンのから揚げはフィリピン人庶民の食文化の最高峰に位置していて、チキンのから揚げさえあれば、フィリピン人は一年中すごせるというものだ。ちなみにジョリビーは、このチキンのから揚げでフィリピンを制覇し、新興のINASALもチキンのバーベキューで一世を風靡した。 ジェーンは知らぬ間に友人とラーメンの食べ歩きをしているようで、事務所/コンド街のマカティ・サルセド・ビレッジのど真ん中にある「MENDOKORO RAMEN BA、麺所ラーメン場」では富裕/中間層のフィリピン人が列を成しているという。彼らにもこのラーメンなら十分やっていけるという評価だが、コメントは「一見して野菜が少なくて健康志向に欠ける印象をもたれるのではないか、そしてラーメンといえば、黄身が生のゆで卵が感激的だ」。これに対し、このたんたん麺はまったく人口調味料を使っていないこと、つゆなしにおいては、塩の使用量が一般の半分以下であるなど、非常の健康的なラーメンであるとのことだった。ゆで卵については考慮の余地はあるとのこと。 たんたん麺を味わい終わったところで、みなで記念撮影。とても貴重なバレンタインパーティだった。それにつけても関心するのがフィリピーノのホスピタリティで、見ず知らずの日本人のたんたん麺の試食の依頼に対して、快く受け入れるばかりか、それを多いに楽しみにして喜んでいるところだ。訪問客の藤田さん、出野さん、そしてマユさんもフィリピン人との出会いを大いに楽しんでくれたものと思う。  

たんたん麺とバレンタインデイ 2016年2月21日


こともあろうに1月1日、チト・アラン(マム・ジェーン一家の次兄)の5人目の子供(アリヤナ)の洗礼式(バプティスマル)が執り行われた(ちなみに赤ん坊の母親は3人目だ)。といっても、いわゆる集団洗礼式で、午前中、近所の教会(サンアントニオ教会)で、数十人の子供が参加して、一辺に済ませるものだ。一般庶民はこれが普通で、5年前のKIANの洗礼式は教会とレストランを貸切でやったが、これは特別だ。 息子は、ニノン(後見人)になるよう依頼され、式に出席した。ニノンになると、人生の節目節目で面倒を見る必要がある。したがってかのマルコスは数万人のニノンになったそうだ。 式のあと、両親双方の姻戚が集まって、披露宴が農場で行われた。当方は、当日までそのことを知らなかったが、母親は近所の農家の出で、13人兄弟だそうで、かなりの数の来客となった。 この日の披露宴の主役は、アリヤナ。KIANは案外おとなしく見守っていた。 食事の後は子供達をプールに招待。大人たちは酒盛りだ。 この日は残念ながらマヨンを拝むことは出来なかった。 以前、農場で暮らしていて私がお世話になった デビナも結婚して一児の母になっていた。2週間後にやはりサンアントニオ教会で洗礼式を行ったそうだ。息子とも親しかったのでお決まりのニノンの依頼があり、今後、一生の面倒を約束させられたようだ。   

チト・アランの5人目の子供の洗礼式 2016年2月11日