Monthly Archives: May 2012


 1998年、私の相棒のジェーンの家の玄関にダンボールにいれられた赤ちゃんが捨てられていた。母親と目される女が人に頼んで玄関に置き去りにしたのだ。名前も誕生日もわからない乳飲み子だった。 サンパギータの花束を胸に飾って、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」39ページのモデルとなったビアンカ、11歳(推定) ジェーン一家の恒例の年末の記念写真、右端のビアンカは心なしか遠慮気味におさまっている。 ジェーンの家には2歳なる長兄の子供が一人いるだけだったので、早速家で育てることにした。とりあえずブランカ(白紙)と名づけたが、後により一般的な女の子の名前のビアンカに変えた。色白で目の大きい可愛い子だった。  学校に入るにはちゃんとした出生証明がないと具合が悪い。そこでビアンカはマミーの子供すなわちジェーンの妹として届けられた。その後、長兄ダシンの長男、次兄アランの長女、次女、と次々と孫が生まれてマミーの愛情も実の孫へと移っていった。そしてビアンカの試練が始まったのだ。 2007年12月、韓国KBSの農場取材に当たって、その日は、丁度ビアンカの誕生日(捨てられていた日)だったので、急遽、盛大な誕生日パーティを行うことになった。右から3人目がビアンカ 小学校へ行くようになって、ある日、学校の先生から呼び出しがあった。全然やる気がなくて、他の子供達の迷惑になるから退学させたいというのだ。結局、留年の憂き目となり、農場の近くの学校に移して、マミーと農場で暮らすようになった。ビアンカとしては他の子供達が実の親に可愛がられているのを見て複雑な思いを胸に秘めていたのだ。  ジェーンが、ビアンカを責めて、「一体お前は何が欲しいのか」と聞いたら、ビアンカの答えは「Love」の一言だったそうだ。  学校を変わって農場で過ごす様になるとビアンカは見違えるように変わって行った。2003~2004年は私自身が農場で暮らしていて、マミーとデバインそして私の4人暮らしだった。 2011年4月KIANの1歳の誕生日。デバインも久しぶりに戻って13~15歳の娘達が可愛い。後ろに写っているのは私の息子。 タバコ港から船で1時間太平洋に浮かぶ孤島に恒例の海水浴に出かける。誰もいない白い砂浜に子供達は大満足だ。  ビアンカのの役割は豚小屋の掃除や鶏やテラピアのえさやり、庭掃除や食事の後片付けと休む時間もない。デバインと二人で農場と家の仕事をこなしていた。 当時はマミーに何か頼むとすぐに「デバインー」と大きな声でデバインを呼んで言いつけていた。そして今、デバインが家を出て、16歳になったビアンカは、いつもマミーに「ビアンカー」と呼ばれて頼りにされている。 2010年12月末のパーティではハイスクール3人娘らがポーズを取る。 他の子供達が 親の愛情のもとにぬくぬくと育っている間に、ビアンカはマミーを助け、思いやり、責任感のある、子の鏡とも言えるほどの良い子に育って行った。学校の成績もあがり、表彰されるほどだった。 […]

ビアンカの物語 2012年5月26日


以前ブログで紹介した美人女子大生など、若い方がインターネットで見つけ出して利用しているのが、AMAX INN MAKATIだ。単なる普通の民家にも見えるが、いわゆるバックパッカー用の安宿で、この手の宿はフィリピンではめったにめったに見かけることがない。 場所はパソンタモ通りを一歩入ったSantillan通りとDela Rosa通りの角の近く、マカティスクエアの日本レストラン街にも近く便利な場所だ。見てくれは決してホテルやペンションには程遠いが、民家を改造して宿として使っている感じだ。     それでも、小さめの庭やロビーがあってくつろげる。45ペソ均一の格安のカフェもあってありがたい。 部屋は、大き目のスツジオ(ダブルベッドが2つ)が2000ペソ/泊。 普通サイズのスツジオ(シングルベッドが2つ)が1600ペソ、ここまでは値段も部屋も普通のコンドテルとかわらない。  しかし、ここにはさらに、一泊550ペソの個室がある。部屋といってもベッドの広さしかないが、大きな部屋を壁で区切ったもので、一応プライバシーがある。そこには共通スペースがあって、テレビもおいてある。さらに、ベッドスペースが、月極めで4200ペソで借りることができる。エアコンも効いているので、何とか過ごすことはできそうだ。  贅沢さえ言わなければ、十分ステイできそうなので、長期滞在で、しかも予算に限りがある方には向いている。 一応食事と言えるメニューがほとんど45ペソと格安だ。この値段は道路沿いのトロトロよりも安いかもしれない。

格安ペンションAMAX INN MAKATI の紹介 2012年5月26日



ホリーウイーク休暇の3日目、この日も快晴でKIANをつれてマヨン展望台に向かった。展望台に向かうマヨン・スカイウエイは山の西側から向かうが、この方向からマヨン火山の全貌を見ることができるのはまれだ。 一年ぶりの展望台にKIANは何を思うのだろうか。  以下の4枚の写真は展望台からながめたパノラマだ。本来は4枚が横に並んでいる。 展望台は3合目くらいのところにあり、標高はせいぜい700m。ここいらが森林限界で上を覗むと荒々しい岩山ばかりだ。頂上付近は傾斜角が45度くらいで、上ったとしたら地を這って進むことになるだろう。 山を下る段になって頂上付近の雲が晴れてマヨンの西側の斜面がくっきりと見ることができた。スカイウエイの途中から眺めたタバコ市の眺望。この辺には畑があるが、この辺ではトマト、レタス、キウリ、キャベツなどの日本の野菜ができるだろうと思う。  山をバックに車上のKIAN。完璧なマヨンを背景にたたずむKIAN。カメラを向けるとポーズをとるようになったKIANだが、背景のことはでは気にしないので、じっとしていさせることに苦労した。       大きなシダの木と直線に延びる道路、道路わきを歩く犬など、めったにお目にかかることのできない貴重な一枚だ。

マヨン火山の絶景 2012年5月26日


 ホリーウイーク開けの4月7日、KIANの1週遅れの誕生会を催した。今回は内輪だけのささやかな誕生会となったが、それでも大家族のジェーンの息子となると30名の出席者で沸いた。昨年は100以上の招待客で華々しく開催したものの、そうは毎年やってはいられないといったところだ。      料理はみんな手作りで、例の甘いスパゲッティにチキンのから揚げは欠かせない。予算は飲み物も入れて、5000ペソ、1万円程度だ。  KIANとしてはロウソクを吹き消すのが無常の喜びで、つけては消し、消しては付けの繰り返しだった。 すきっ腹を我慢して聴衆はKIANのロウソクの吹き消しを見つめ、そのたびに拍手のサービスだ。  食料は朝から大量に仕込んであるので問題ない。それにつけてもあの甘いスパゲッティが一番人気なのが解せない。  KIANもヌードルとからげには目がないから、ご満悦だ。食事が始まってもろうそく消しをやめない。  ちなみに皿代わりに使っているのが、ザルとバナナの葉、使い捨てでもごみにならないから極めて重宝だ。バナナの葉はその辺にいくらでもある。  最近農場に越してきたマミーのお姉さん、テラピア・ポンドの脇に家を作って住んでいる。彼らもKIANの仕草をながめて幸せそうだ。

KIAN2回目の誕生日 2012年5月26日



  2才を過ぎても一向に話し始める気配のないKIANにママ・ジェーンは少々心配気味だった。私は遅かれ早かれ洪水のようにしゃべり始めるから心配ないと諭した。特にKIANの場合はタガログ語、ビコール語(フィリピンの方言)、英語、そして日本語と4つの言葉が周囲で飛び交っているので、話し始めは遅くなるのが道理だ。だからといって、周囲が一つの言葉に統一するなんて余計な事をすると、せっかくのバイリンガルの道を閉ざしてしまう。  最近カメラを向けると、あごの下に手をやってポーズをとるようになった。このポーズはフィリピンの子供達の間ではやっており、親指と人差し指を開いてあごの下に当てる、ある芸能人がはやらせたポーズだが、ちなみに「僕ハンサム」という意味だ。16歳の姉、キムに抱かれて泣き叫ぶKIAN。KIANは若い女の子が苦手だ。 ホリーウイークが開けてマニラに戻る際、いとこの女の子を3人(6~8才)、KIANの遊び友達にマニラに連れてきた。一人っ子はわがままに育ち気味なので、夏休みの間、いとこと遊ばせようという算段だ。しかし、体重がほとんど同じ彼らはKIANのやんちゃぶりに逆にいじめられるというていたらくだ。しかし一日中一緒に遊んでいるので、KIANが彼らと話を始めたのだ。以前はママやダダ(私のこと)しか言わなかったのが、私が抱いていると、「ババ」という、これは降りるという意味だ。次に、「オポ」と言う、これは座ると言う意味のタガログ語だ。 この日は皆でボニファシオ・グローバル・シティのマーケット・マーケットに出かけた。目当てはそこに併設されている遊び場だ。 さらに、いとこのことを「アティ」と言う、これは年上の女の子の呼び方だ。「アティ」に対して「オポ」と言ったら、姉さんに対して、そこに座れと命令しているのだ。一緒に車に乗ろうと、「オポ」、「オポ」を「アティ」に対して繰り返して、促す。これは明らかに会話をしていることになる。  これらは私の知らないタガログ語なので、これからはKIANと一緒にタガログ語を一から覚えたいと思っている。ちなみに日本語の「ハイ」は「ポッ」だ。KIANと名前を呼ばれたら、目下のものは「ポッ」と返事しなければならない。 私はいつもKIANに日本語で話しかけるので、KIANは知らぬ間にそれを覚えている。「タベタイ」、「ノミタイ」、「オモイ」などの言葉をタイミング良く発するのだ。私がKIANを抱き上げるたびに「重い」と言うので、KIANは椅子を持ち上げながら、「オモイ」と言う。知らぬ顔をしながらしっかりと身につけているのだ。さらに「おいしい?」と聞くと首を縦に振って「ウン」うなずく。さらに「マサラップ?(おいしいという意味のタガログ語)」と聞くと、やはり「ウン」とうなずく。「うれしい?」や「マサヤ?」聞いても同様だ。これは、明らかにマルチの言葉を理解し始めている証拠だ。 スーパーに買い物に出かけて、カメラを向けると、手をあごに当てて体を曲げてポーすをとる。 夕食時となると2階から私を「ダダ」と大声で呼んで、泣き叫ぶKIANだが、お腹が空いて一緒にご飯を食べようと言う催促だ。KIANの好物は相変わらず、納豆と海苔、それに味噌汁だ。もちろん鳥のから揚げやアイスクリームにも目がない。 話は変わるが「Baby、Baby」で始まる「BABY」という流行の歌をかけるとKIANは激しく踊り始める。ステップはでたらめだが、そのハチャラカな動きには目を見張る。彼の頭の中も色々な言語がハチャラカに入り交ざって、それがおいおい整理されて、言葉となって出てくるのだろう。動画が重過ぎてアップロードできないのが残念だ。

KIANがついにしゃべり始めた 2012年5月12日


シティ・ランドと言えば、老舗の大手デベロッパーで、比較的安価なコンドミニアムをマカティ中心に提供している。現在もブエンディアとサウス・スーパー・ウエイの交差点近く(デラロサ)、パソンタモとパサイロードの交差点近く等に高層のコンドミニアムを建設中だ。  今回、退職者の方が、月々15000ペソ前後でワン・ルーム(スツジオタイプ)の家具付コンドミニアムを借りたいと言うので、シティ・ランド-デラロサを訪問して、希望の物件を見つけることができた。   シティ・ランドと言えば、安かろう、悪かろうの印象が強く、敬遠していたが、不動産屋さんに頼んでも、そんな予算ではマカティにコンドミニアムは借りられないと敬遠され、色々知恵を絞った挙句、ここにたどり着いた。サウス・スーパー・ハイウエイとブエンディアの交差点にあって、いかにもうるさそうだが、逆に目の前にハイパーマートやキャッシュ・アンド・キャリーなどの大型スーパーがあって、便利な立地だ。また、4棟のコンドミニアムが一緒に立っているために、一階にはサリサリやロンドリー、床屋など生活に必要なものはほとんどコンドミニアムの中で賄えそうだ。 屋上からマニラを望む。シティランド-デラロサはマカティの中心街からちょっと外れているため、360度の眺望がすばらしい。西側はマニラ市街地だ。  屋上のプールやジムに案内してもらったが、一流コンドミニアムと比較したら、少々施設の規模は落ちる。しかし、15000ペソで借りられるコンドミニアムでは、普通ならジムやプールは期待できない、ここはかなり充実していると言える。  東側のマカティ方面は上の写真が北側で下の写真が南側だ。横に並べてみれば判りやすいのだが、南側半分はほとんどが新築の高層コンドミニアムだ。サウス・スーパー・ハイウエイの2階、スカイ・ウエイはここから始まる。前方に見えるコンドミニアムもシティランドの物件だ。 この方は、地震をずいぶん心配していた。フィリピンの構造物は中国のように地震でくずれないだろうか。だから高層ビルはいやだ。また、他の安いコンドミニアムではゴキブリの攻撃にさらされて往生したそう。幸い、ここは清潔でゴキブリの影は見えなかった。地震については、 ①フィリピンは火山国でフィリピン海溝など日本に地形は似ているものの、私の20年の経験では、地震らしい地震は2回しかなかったこと(バギオ地震と、最近のネグロスの地震)。 ②マカティは地盤が非常にしっかりしていて、たとえ地震があっても、関東地方のようにゆるい地盤で地震が増幅されることが少ないこと。 ③フィリピンの耐震設計は昔の日本のように構造物の重量の0.2倍の水平力を考慮することになっており(1990年ごろの耐震設計基準)、日本の従来の建物に比べて、地震が少ないだけ安全であること。 などなど説明して納得してもらった。 ちなみにフィリピンで建設中の高層ビルはすべて鉄筋コンクリート製で日本のように鉄骨製のビルはない。これは、下記の理由によるもので、日本に比べて建設費は数分の一ではないかと推定される。そのため、日本の建設会社による、工事は全く見ることができない。 ① 地盤がしっかりしていて、重量の大きい鉄筋コンクリート構造物を容易に支えることができること。 ② 地震が少ないので、設計上顧慮すべき水平力が小さく、重量がかさんでも設計が成り立つ。 ③ 鉄筋コンクリートの材料は、セメント、砂と砂利、鉄筋でいずれもフィリピン国内で調達が可能、すなわち材料費が安い […]

シティランド(デラロサ)からの眺望 2012年5月12日



フィリピンにやって来て最初に苦労するのが、なかなか良い地図が見つからないことだ。特に道路マップが貧弱で、地方に旅行するときなど苦労する。1989年フィリピンにやって来て最初に手がけたのが地図探しだった。  そこで判ったのがフィリピンにも1万(1万分の一地形図)、5万あるいは20万という地図が立派に存在することだ。日本の国土地理院のようなところ(The National Mapping and Resource Information Authority (NAMRIA))で発行・販売しているだけだが、販売所はボニファシオの基地の中にある。ちなみに下の地図はマヨン火山付近の20万分の一の地形図だ。 フィリピン全体の地図としては色々あるが観光省で発行している地図が日本語で見やすい。主要な観光地が記されて、裏はマニラあるいはセブの観光案内がコンパクトにまとめられている。在日フィリピン大使館の横山さんに頼めば手に入るはずだ。 道路マップとしては主にACCU-mapとE-Z MAPが主要都市とフィリピン全土をカバーするものを出しているが、個人的にはACCU-mapの方が好きだ。最近でこそ、本屋、文房具屋、ホテルなどで見かけるが90年代は、入手がなかなか難しかった。 マニラ首都圏のマップとして優れものがマニラ新聞で出しているNAVIに載っているマップだ。マカティ、エルミタ/マラテ、ボニファシオ、オルティガス、ロックウエルなどが、日本人が訪れる店や事務所が日本語で記載され、大変重宝だ。  いよいよ本題に入るが、何故、フィリピンでは地図が少ないのか。それはフィリピン人が地図を使わないからだ。それでは、何故使わないのか。それはほとんどの人が地図を読めないからだ。日本人からすると、何故と思うかもしれないが、彼らは地図など見なくても、住所さえあればどこでもいけるし、それで不自由はしないのだ。  そもそも、鳥でもない限り地形や道路を上から、あるいは3次元的に見ることはない。地表にいる限り、人は平面的あるいは2次元の世界で暮らしている。だから、どこかへ行くのに人は、元来地図すなわち3次元的ではなくて平面的すなわち2次元的に捉えているのだ。例えば、「まっすぐ1km進んで、マクドナルドのところを右に向かって、3つ目の道路を左に折れて...」てな具合だ。  本来2次元である地形や道路を鳥のように3次元で捉えること、また逆に3次元的に眺めたの地図から2次元に落として捉える、と言うことはよほどの訓練がなければできないことだ。すなわち訓練によって身につけることのできる後天的能力であって、エンジニアーが設計図を見ただけで、現物をイメージできるのと似ている。  例えば、鳥が地上に降りて歩いてどこかへ行こうとしても不可能だろう。また、逆に蟻を空に連れて行って、行き先を聞いても判らないだろう。彼らは位置の捕らえ方が、全く違うのだ。どちらかといえば、蟻に近い我々においては、2次元で捉えている位置を3次元的に表現しようというところにどだい無理があるのかもしれない。 […]

フィリピン人は何故地図が読めない 2012年5月12日


  このほど、MAさんのフィリピン人との結婚の手続きをお手伝いする機会があった。結婚式はアンヘレスの近くのマガランというところで、そのため、相棒のジェーンとともに立会い人として出席した。マガランはアンヘレスから20分くらいのところだが、典型的な田舎町だ。  MAさんは私と一緒の昭和22年生まれの64歳だ。先妻とも別れて、今は一人ぼっち、まだ現役で働いてはいるものの、将来一人暮らしでは介護などの状況に陥ったとき、面倒をみてもらう人もいないという憂いから、まだ30歳のフィリピーナを再婚の相手として選んだ。彼女の実家には今回初めての訪問だが、2週間の滞在がまるで島流しのようでかなりストレスがあったとのこと。この経験を活かして将来の住処など間違いのないように計画したいと言っている。 妻となったフィリピーナは10歳前後の子供を二人持つシングルマザー、日本に働きに行った経験もあり、片言の日本語を話す。彼女としては結婚してしばらくは日本に行って、家の資金を貯めたいという目論見がある。いわば双方とも典型的な結婚の動機をもっている。 式はマガラン市長が執り行ったが、なかなか厳粛なもので、この間約20分、新郎のMAさんは感激で涙が出そうになり、初婚の妻はMAさんが震えていたと笑っていた。単なる立会人として出席した私は、急遽通訳もやらされてちょっとあせった。 新郎新婦による恒例のキスの場面ではMAさんの照れは尋常ではなかった。しかし生まれも育ちも思惑も違う二人が、これから夫婦として一緒に暮らしていくことは容易な事ではないだろう。妻の執拗な金銭的要求をいかにはねつけていくか、もちろんできるだけのことはするにしても、ないものはないと、きっぱりはねつける固い意志も重要だ。よく話しあって納得づくで進めることが大事で、決して短気を起こしてはいけない。3周りも上の人間を生涯一度しかできない結婚の相手に選んでくれただから、その覚悟を汲んでやらなければならない。 ところで、フィリピンでの婚姻の手順は下記となる。 ① 結婚要件具備証明書の日本大使館での取得(戸籍謄本を準備、離婚歴がある場合はその記述があるものも用意する) ② 婚姻許可証を妻の住まいのある市役所で取得。10日間の掲示を経て発行される(具備証明のほかに、妻の出生証明、未婚証明(CINOMA)などが必要) ③ 挙式(牧師、判事、市長などが式を執り行う資格を持っている) ④ 市役所での婚姻証明書の取得 ⑤ 日本大使館あるいは日本の最寄の市役所あるいは日本大使館に婚姻の事実を届け(①から④までの手順で作成・取得したすべての書類を翻訳して提出する)、戸籍に反映させて手続きは完了する なお、手続きを簡単に済ますためには①から④間での手続きを市役所の登録事務所に一括して任してしまうことだ。いくばくかの金で約2週間でやってくれる。したがって、①から⑤まで、約3週間の滞在で完了できる。 式を終え、婚姻許可証の発行にも目処がついて、MAさんはほっとした様子。さすがに新婦と寄り添って幸せそうだ。新婦の二人の子供も加わって、市長室で記念撮影を行った。  この後、身内の人が集まって披露パーティを行うそうだが、そのときの姻戚一同の騒ぎっぷりは想像に難くない。

MAさんの結婚 2012年5月2日